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真田丸13話決戦の感想3 局地戦に快勝した真田昌幸

感想 歴史 真田丸

真田の上田城に迫る徳川勢。

2016-01-03 11.00.37

逸っている兵隊に合わせるように真田はこまめに戦って退却していきます。
徳川勢の前線の侍たちは逃げる兵隊を見て勢いを増します。
相手が弱いと錯覚するんですね。
これも昌幸の作戦です。
そして上田城二の丸まで攻め込みます。

ここで真田の約1500名が出迎えるんですね。

徳川勢の先頭は300もいなかったのではないでしょうか。

細い路地の先に辿り着く人数よりも昌幸の用意した人数の方がこの部分では多いですね。

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まずは鉄砲や弓で散々相手の前線を崩壊させます。
鉄砲は煙なども出ますし、おそらく視界を限定させるような手段も取っていたでしょう。

そして勢いがあった徳川は後ろが推してくるので、面白いように鉄砲が当たります。
おかしいな?と思った時に、昌幸に率いられた1500の本体が突撃します。

徳川勢は簡単に総崩れしたでしょう。

それに追い打ちをかけるように信幸の軍勢が側面から攻撃してきます。

最後には関止めされた川の水が敗走する徳川勢の退路を断ちます。

結果は徳川1300名の死者・真田は50あまり。
徳川勢はその日の夕方に撤退しました。

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徳川氏も真田と同じように本来は三河の山奥の豪族でした。

5世代かけて三河安城という平野部に出てきました。

山奥の人は狩猟などもやっていたでしょう。

とても機敏に走り回って領土を広げていったと思います。
それが150万石近くなったところで、昔の徳川と同じような正規の戦い方ではない戦い方で翻弄されます。

徳川家康は当時150万石近い大領の持ち主でした。
1万石あたり250~300人の動員力があります。
換算すると、37500~45000人の動員力があるはずです。

しかし、真田征伐には約7000名しか動員できていません。
そして家康本人も来ていません。

それは大阪に政権を作り始めた豊臣秀吉からの侵略がいつあるのか予断を許さなかったからです。

また、この頃、関西と東海では大地震があったそうですね。
それもまた影響しています。

そういえば武田勝頼の滅亡の時は浅間山の噴火でした。
日本ですね・・

 

真田昌幸の限界

同時に、真田昌幸という人物にも限界がありました。
自身の半生のほとんどは山奥等地形を利用した戦いのみなんですね。

昌幸は後に出てくる北条征伐の時に初戦で、北条方に敗戦したと言われています。
これはおそらく平野での戦いだったのではないでしょうか。

その後も昌幸は自身の限界である少ない兵隊で多くの兵隊と戦って勝つという状況から抜け出せませんでした。

彼は多くの苦労・努力の割には得た領地が少なすぎました。
それは彼を少しひねくれ者のような心理にしていったのではないでしょうか。
大勢力の狭間で生き残る彼の一生を秀吉は「表裏比興の者」と呼んだらしいですね。
まだまだ書きたいことは山ほどありますがこのぐらいにしておきます・・

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