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1982年まで戦い続けた祖父の太平洋戦争

太平洋戦争の記憶

2045年は終戦100年の年になります。

私は2045年に世界中の人と、先の大戦の話を歴史として語り合うことができるようにしたいと思います。

これから29年かけて、太平洋戦争・そして第二次世界大戦について調べ、学びたいと思います。

まずは身近なところから調べてみました。

祖父も生誕からもう104年も経っています。

伝聞の域を出ない話もありますが、ご容赦ください。

1982年まで戦い続けた祖父の太平洋戦争について紹介します。

登山に勤しむ祖父

藤丸正(ふじまるただし)。1911年、福岡県大牟田市生まれ。
和菓子店「梅園」創業。1982年8月17日死去。

当時の大牟田は炭鉱全盛期でした。

曽祖父は明治になって大牟田で呉服店を始めます。

しかし、曾祖父は流行りの炭鉱に手を出して家に帰らなくなりました。

曾祖母はそのあおりで病気になり祖父が6歳の時に死去したそうです。

祖父は近所の草餅店に小僧見習いとして勤めます。

親戚の勧めもあり、関東大震災復興醒めあらぬ東京へ一人で旅立ちます。14歳。

祖父は新宿にある中村屋に勤めます。

それから約20年、このお店にお世話になります。

番頭にまでなったという話もありますが、今となればわかりません。

祖父の思い出話だったのでしょうか。

祖父はここで福岡出身の松永安左衛門氏や麻生多賀吉氏、松本清張氏などに出会っています。

新宿中村屋での日々は祖父の和菓子職人人生を大きく変えました。

その後、福岡の“なぎすや”というお店に勤めます。そこで祖母と知り合います。

結婚し、太宰府で和菓子店を始めた頃、赤紙令状が来ます。

出征前の祖父

そして一度、大牟田に里帰りします。出征前の写真と思われる写真です。

祖父は香港攻略戦に従軍し足を負傷したそうです。

台北の病院に入院していたのをかつて中村屋時代のお客様が見つけてくれたそうです。

そのお客様は陸軍大将の重責を担っている人物だったそうです。

祖父の菓子と料理の腕の残したいと、後方輸送部隊に転属してくれたそうです。

北ボルネオに出戦します。

 

ボルネオ戦線での祖父

兵站担当ですが、一応の記念写真が残っています。

一番左が祖父だと祖母が13年ほど前に教えてくれました。

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やがて1945年8月15日。

終戦を迎えます。

祖父は北ボルネオで国王一家の捕虜になりました。

そこでコックとして1年程働いたようです。

国王一家の名前は“ダトウヤシン”

祖父とダトウヤシン

これは後に一緒に撮影した写真です。

祖父はここでは幸せな捕虜生活だったそうです。

やがて日本に帰ってきます。

祖父は後に祖母にこんなことを言っていたそうです。

「戦争に勝ったらオーストラリアに引越しする予定だった」と。

その後、祖父は太宰府に戻り、和菓子屋を再開させました。

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2度の倒産危機を乗り越えた和菓子店は大繁盛します。

晩年の祖父はとても幸せだったでしょう。

祖父と黒澤監督

新宿中村屋で知り合った黒澤監督が祖父を訪ねて太宰府を訪れます。

祖父とダトウヤシン (2)

ボルネオのダトウヤシンとは晩年までも交流がありました。

1982年8月15日。

それは祖父の意識のあった最後の日でした。

私の兄が生まれて5か月。祖父は兄を抱いてテレビを見ていたそうです。

終戦の日。祖父は敗戦の日だと思っていたでしょう。

祖父は玉音放送を聞いて、脳溢血で倒れました。

8月17日。祖父は帰らぬ人になりました。

葬式にはボルネオからも国王第三夫人が一家を代表して参列してくれたそうです。

私は祖父が亡くなった1年後の8月に生まれました。

祖父が生きていれば、戦地での話も聞くことができたでしょう。

戦時中の話も聞くことができたのではないかと思います。

戦争は1945年8月15日に終わっています。

しかし、それにかかわる人の多くの人生がまだ日本社会には残っています。

私の祖父は戦後38年経ったのちに、戦争を思い出して脳溢血になっています。

祖父は戦後も戦争経験の苦しみを持っていたのかもしれません。

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東アジアでは先の大戦が今でも政治や外交にも影響を与えています。

若者が歴史を知ることは大変重要になってきているように思います。

若者が歴史を知り・学ぶ。

そして世界中の友人達と語ることができる催事を行いと思います。

そして2045年を世界中の人と迎えたい。そう思います。

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