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太平洋戦争の記憶 米軍の原爆投下目的地は京都だった

太平洋戦争の記憶

太平洋戦争で日本が降伏を決断した広島と長崎の原爆投下。
そこには米政権と米軍との思惑の違いがありました。

太平洋戦争の記憶。
米軍の原爆投下目的地は京都でした。

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先日、NHKBSの番組を見ていました。

日本人は原爆の投下目的地から京都や奈良は文化財が多いということで
外されたという逸話を知っています。

しかし、実際は米軍にはそんなことはなかったという番組の結論でした。

米軍は原爆投下より2年前から原爆の使い方を検討していました。
日本に17発も投下することを考えていた研究家もいたそうです。
しかし、当時の米政府のルーズヴェルト政権は非現実的な話だと考えていました。

米軍の原爆投下シナリオ

サイパン島のすぐ南のテニアン島に日本の飛行場がありました。
米軍はここを占領して、まずは空襲の拠点とする計画を立てます。
テニアン島には原爆の組立工場を建設し原爆の生産ラインを作りました。

 

ルーズヴェルト大統領の死

1945年4月12日。
ルーズヴェルト大統領が突然死去しました。
トルーマンは副大統領就任3カ月で4月25日に大統領に昇格しました。
しかし、トルーマン大統領は米軍の原爆投下計画を知りませんでした。

 

米軍の原爆計画

原爆計画「マンハッタン計画」を推進していたレズリー・グローヴス。
彼は24ページの報告書を持って就任したばかりのトルーマンに提出しました。

報告書にはこう書いてありました。

「戦争を終わらせる決定的な武器となる」。

トルーマンは原爆投下に対して以下の注文を付けました。

攻撃対象は軍事施設に限り、女性子供をターゲットにしないこと。

しかし、軍優先の時代の風潮とは恐ろしい物でした。

なんとトルーマン政権は軍から都合のいい情報しか与えられていませんでした。

専門家達の意見

日本への原爆投下には多くの専門家の意見が参考にされています。

気象博士ランズバーグは、日本は5・6月は梅雨があり、7月よりも8月が良い。

物理学者スターンズ 直径5キロ平地(市街地)ある場所を選定しました。

東京・横浜・川﨑・名古屋・京都・名古屋・大坂・神戸・広島・呉・小倉・長崎

中でも京都は住民の知的レベルが高い。

この効果の意義を認識するだろう。

その情報をもとに、グローヴスは京都が良いと主張します。

投下目的地京都を巡ってトルーマン政権とグローヴスは争います。

偽装した報告書を作ったグローヴスの立場

グローヴスはその後、京都に軍事施設があるといった報告書を作った。
紡績工場や京都駅を軍事施設と偽りました。
グローヴスはスティムソンの元に6回も通いました。

グローヴスは完成した原爆を使わなければ議会で厳しい追及を受けます。
22億ドルの国家予算を使ったマンハッタン計画。
グローヴスはその成果を上げないといけない立場でした。

 

 

京都案を握りつぶしたスティムソン

ヘンリースティムソン陸軍長官。

トルーマンの有力な側近。

彼は京都に行ったことがありました。

その文化財の奥ゆかしさに心を奪られたそうです。

グローヴスはスティムソンに投下目標候補地について聞かれます。

しかし、京都はみとめないと通告されます。

京都投下に反対したスティムソンの日記がイエール大学に残っています。

6月6日(グローヴスの報告を受けた1週間後の日記)。
アメリカがヒトラーを凌ぐ残虐行為をしたという汚名を着せられないか。
スティムソンはかつて2度京都を訪ねたことがあった。
空襲は国際社会が非難する無差別攻撃にあたるのではないか。

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スティムソンはトルーマン大統領に働きかけます。

米軍の思惑はトルーマン政権から抹殺されました。

その結果、京都は原爆投下目的地から外れました。

かつてのスティムソンの訪日が京都を救ったといえるでしょう。

 

太平洋戦争の記憶。

米軍の原爆投下目的地は京都でした。

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