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太平洋戦争の記憶。2人の祖父が配属された「久留米師団司令部」の今

太平洋戦争の記憶

戦前、日本は全国に軍隊の駐屯地がありました。
奈良奈良教育大学の敷地は戦前は陸軍の駐屯地でした。
そして、そんな陸軍の中でも最強と呼ばれていた師団がありました。

太平洋戦争の記憶。日本最強と呼ばれた久留米師団の司令部跡を歩きました。

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久留米師団。第十八師団。

久留米師団は菊兵団と呼ばれ、師団の中で唯一菊の御紋の使用を許されていました。
天皇家の御紋を許されている国軍最強を自負する師団でした。
太平洋戦争期間中も敵軍から恐れられていたそうです。

敵にはこの久留米十八師団と戦いたいという軍団もいたそうです。
全国各地には、このように各地に駐屯した師団の歴史が残っています。

師団は地域住民で構成されていた

戦前の軍隊の師団制度は基本的にその地域から兵隊が招集されます。
例えば、四国の師団は四国の人で構成されています。

明治以降の歴史の中で、師団は地域の誇りの中心にもなっていました。

地域によって兵隊の質に差があった

師団は一般に、商業地域よりも農村地域の方が強かったと言われています。
農村地帯は地域が一体となって農業を行います。

田植えも稲刈りも、同じ時期にやらないといけないんですね。
なので、人の指示に従うという文化が強く存在します。
つまり、軍隊の指揮において、従順な兵隊だったと言えます。
その従順な兵隊は強力な軍隊活動には必要不可欠でした。

その結果、農村部=従順=軍隊=強力という構図になっていました。
四国の師団が活躍すると、新聞で大々的に報じられます。
娯楽の少なかった農村部などでは語り継がれたでしょう。

今でも農村地域の広がるかつての師団司令部のある地域はかつての栄光を口にする人が少なからずいます。

 

日本陸軍最強といわれた久留米師団の司令部跡

久留米の町は今も自衛隊基地があるなど、割と男性的な力強さのある町です。
この久留米という名前の由来も面白いエピソードがあります。

かつて古代の戦闘族久米族のいた地域という神話があります。
久米族のいた地域で、久留米と名前が付いたという話も残っています。

 

行政所管の土地は今でも行政所管の場合が多い

久留米師団の司令部は現在、久留米税務署になっています。
かつての久留米師団の駐屯地も今は自衛隊の基地となっています。

行政所管だった土地は今でも行政所管の場合が多いです。

石碑に込められた思い

その一角にひっそりと残る久留米師団司令部の碑があります。

みにくかったので少し画像に色を入れています。
ネット上で文章が紹介されていたので、記しておきます。

明治40年10月 久留米師団司令部この地を卜として発足してより50有余年 その間日独戦争 満洲及び支那事変 大東亜戦争と相次ぐ戦火に赫々の武勲を樹て 九州男子の面目を躍如たらしめたるも 昭和20年終戦とともに つわものどもが夢のあととなり果て 昭和23年久留米税務署庁舎と変わり 爾来12年の間 税務行政を通して国家財政に寄与し来るも 昭和36年2月新庁舎完成とともに伝統と偉容を誇りしその建物も あたなく取壊さるる運命となりぬ
今ここに久留米師団司令部の門標を仰げば 任天の英霊来り泣くか悲愁胸を打って言うところを知らず
その親その子はもとより 往時を偲ぶ人達の訪れることもありなんと 近代白亜土の建物の一隅に斯しくはこの碑を樹つ
古語に曰く 霊魂は不滅

石碑の裏には建立者の名前が刻まれていました。
かつて、この師団には視察で皇族の方が来られることもあったそうです。

私の祖母の一番上の姉はその際に久留米の学生を代表して歓迎のスピーチをさせていただいたそうです。
こういった話は一族に代々伝えられて誇りとなっていくのでしょう。

この石碑は、昭和26年にかつての司令部の建物が壊されるにあたり作られたそうです。
司令部跡の建物への地域住民の思いはとても強かったのでしょう。

私の二人の祖父もこの久留米師団に配属されて戦地へ向かいました。

 

父方の祖父

1982年まで戦い続けた祖父の太平洋戦争

http://tadaakifujimaru.com/2016/07/22/post-1383/

 

母方の祖父

学徒出陣と本土決戦の話

http://tadaakifujimaru.com/2016/08/15/post-1501/

 

 

母方の祖父は自分の死後はその軍服を関係施設に寄付してほしいと言っています。

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幕末のペリーの来航依頼、必死に海外に追いつこうとした日本。
幕藩体制による地方分権とも言えた時代から明治政府は中央集権制へと変貌します。
毎年同じ稲作を繰り返すことで年貢を納めていた各地の農村。

そこに突如、血税と徴兵という義務が課せられます。
そういった事情の中でも、地域は地域で国家の役割を担います。
各地における各師団という誇りはこれからも残り続けるでしょう。

私の祖父は二人ともこの司令部の司令に従って、満州と香港へ出征しました。
72年後に孫がその地を訪ねています。

敷地の中に何気においてある石を祖父も見たかもしれません。

太平洋戦争の記憶。

日本最強と言われた久留米師団の司令部を訪ねました。

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