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関ケ原の戦い西軍大将不在の原因と小早川の布陣場所と裏切り

歴史

1600年関ケ原の戦いが起こります。

関ケ原の戦い・西軍大将不在の原因と小早川の布陣場所と裏切りについて紹介します。

 

関ケ原の戦いで西軍大将が不在だった原因とは

関ケ原の戦いでは西軍の総大将毛利輝元が戦場不在でした。

西軍は大将不在でよく関ケ原の戦いを行ったなと思います・・・。

関ケ原の戦いの原因は豊臣政権の主導権争いです。

しかし、徳川家康はそれをうまく使って自分の政権作りを画策します。

その徳川家康の対抗馬前田利家が逝去し石田三成が立ち上がります。

そして石田三成が西軍の総大将に担ぎ上げたのが毛利輝元でした。

 

毛利家の体制の問題が原因した総大将不在の関ケ原の戦い

毛利家の体制には問題がありました。

外交担当、安国寺恵瓊は西軍派。

軍事担当の吉川広家は東軍派。

この二人が犬猿の仲でした。

その結果、毛利家は団結を欠き行動がばらばらになります。

毛利元就は外交担当の安国寺恵瓊主導で西軍の総大将になりました。

同時に軍事担当の吉川広家主導の消極的な裏切りを敢行します。

その狭間で当主毛利輝元は苦悩します。

結果、大坂城を出て戦場に向かうことができませんでした。

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関ケ原の場所は岐阜県

関ケ原の戦いは現在の岐阜県関ケ原町で始まりました。

ここは西日本・東日本の境目です。

関ケ原の戦いはまさに東西分け目の場所でした。

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関ケ原の戦い・・・小早川の布陣場所と裏切り

当初、西軍は濃尾平野に集合ということで分散して行動します。

この分散は後に関ケ原の戦いの西軍敗北の原因にもなります。

三重方面と岐阜方面に分かれて行動します。

しかし、東軍の動きが想像以上に早かったんですね。

それで急遽、関ケ原に全員集合をかけました。

ここで小早川秀秋が登場します。

関ケ原の戦いは小早川の布陣場所に勝敗を分ける原因がありました。

小早川秀秋は豊臣家の跡継ぎ候補でした。

しかし、朝鮮の役で秀吉の勘気を被ります。

理由は彼自身にあったにせよ、石田三成の讒言でした。

そこで、小早川秀秋は石田三成を恨みました。

一方で、小早川秀秋は気付けば西軍にいました。

そこで、小早川秀秋は関ケ原集合命令前から関ケ原に勝手に布陣していました。

そして、優柔不断な彼の補佐役達は徳川家康に篭絡されていました。

関ケ原で小早川の布陣場所が絶妙なんですね。

小早川より北側に布陣したメンバーは好闘派です。

小早川より東側に布陣したメンバーは慎重派でした。

その間に布陣した小早川秀秋。

彼が動かないことで、慎重派はますます慎重に・・・。

面白いことに、この慎重派の何人かは裏切る約束を東軍としていました。

慎重派が戦わないために、好戦派は午後から疲労が目立ち始めます。

そこに徳川家康から秀秋に威嚇の鉄砲が撃ち込まれます。

小早川秀秋は寝返ります。

関ケ原の戦いではこの小早川秀秋の寝返りが結局はすべてを決しました。

優柔不断の男にキャスティングボードが握られていました。

関ケ原の戦い西軍大将不在の原因と小早川の布陣場所と裏切りについて紹介しました。

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