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徳川家家老石川数正と酒井忠次・徳川四天王を紹介します

井伊直虎 歴史

徳川家康。

織田信長のように天才性はなく、秀吉のような陽気さもない。

しかし着実に組織力を上げていき、天下を統一します。

徳川家康の天下統一には6人の人物の活躍がありました。

徳川家筆頭家老の石川数正と酒井忠次。

そして徳川四天王の本多忠勝・榊原康政・井伊直政・本多正信です。

徳川家筆頭家老石川数正と酒井忠次・徳川四天王を紹介します。

 

徳川家康の幼少・青年期を支えた年上の石川数正と酒井忠次

徳川家康は父広忠から今川家に人質に出されます。

徳川家康初めての国外出張に随行したのが、石川数正と酒井忠次でした。

石川数正は外交も戦もうまく、家康の危機を何度も救います。

また、酒井忠次も家康の叔父として終始サポート役を務めます。

徳川家は二大軍団制

徳川家康は三河統一後に家臣団を二軍団制にします。

三河を二つに分け、西三河を石川数正に、東三河を酒井忠次に任せます。

石川数正は徳川家康と共に岡崎に居住します。

一方の酒井忠次は吉田城(現在の豊橋市)に居住し、東三河を統率します。

遠江平定後、酒井忠次は遠江を傘下に収め、石川数正は三河を治めます。

 

徳川家康の本拠移転問題

徳川家康は本拠を遠江浜松に移します。

これは、徳川家康は織田信長の積極先を参考にしたでしょう。

織田信長は一歩でも前に出て戦うことを常としていました。

家康も岡崎から浜松に本拠を移すことでその姿勢を作ります。

しかし、織田信長はとても嫌がります。

織田・徳川の敵は武田信玄です。

武田信玄は兵農分離の進んでいない軍隊です。

田植えと収穫があるので季節を跨いだ遠征はできません。

そう考えると本拠地は敵から遠い方が安全です。

浜松よりも岡崎の方が徳川は武田信玄から遠くなります。

しかし家康は平定したばかりの遠江が心配です。

実際に遠江の諸将は徳川に臣従した後も武田に裏切る武将がいました。

この家康の積極先は徳川内でも議論になったでしょう。

 

両国問題は信康事件で最悪の結末を迎えるが・・・

家康はそのバランスを取るために岡崎には嫡男信康を配置します。

これが裏目に出ました。

徳川家康は積極策とバランス力がちぐはぐになったのでしょう。

信康は妻である織田信長の娘徳姫との関係を悪化させていました。

織田信長からいうと、この2つの件が気分を害したでしょう。

徳川家康は両国に跨った経営上の弱点をこの時点で学んだしょう。

岡崎衆は徳川の本隊から、浜松の傘下部隊になります。

これも岡崎衆は気が気ではなかったでしょう。

そして長篠の戦いが終わったのちに、その緊張が緩み徳川は混乱します。

しかし、三男秀忠の出生と信康の切腹を境に、また団結を始めます。

徳川信康の能力や母・妻・子孫と信康事件の真相

 

 

徳川成長期に起こった世代交代と徳川四天王

その新たな団結を担ったのは国を任された石川数正と酒井忠次の下に出てくる武将です。

ここが徳川四天王といわれる本多忠勝・榊原康政・本多正信・井伊直政の4名ですね。

この時代、軍を指揮できる武将はとても重宝されました。

徳川では酒井忠次・石川数正・井伊直政・榊原康政・奥平信昌などがいます。

徳川家が大きくなるにつれて、動員兵力も上がっていきます。

すると、単独で行動できる武将が必要になります。

酒井忠次などは、小牧長久手の戦いの初戦でも単独で豊臣方の猛将森長可を粉砕しています。

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豊臣家の外交力に‘くさび’を打ち込まれた徳川家

徳川家の二枚看板は石川数正と酒井忠次です。

この時期の徳川政権の西部方面(豊臣)の外交担当は岡崎城の石川数正。

一方の、東部方面(北条)の外交担当は酒井忠次です。

石川数正担当の豊臣秀吉は天性の人たらしです。

石川数正は大都市上方の秀吉の心の広く見える演出に魅了されていったでしょう。

 

 

団結する組織にありがちな組織外への意識

一方、信康事件以来、徳川家における上方の印象は最悪だったでしょう。

また信長にこき疲われた苦い記憶もあります。

また、三河武士団はこの当時非常に精強で名前が通っていました。

団結力の高い徳川武士団は上方の弱小兵隊を見下していたようです。

ここに三河武士団と外交担当者石川数正は心の距離を作ります。

 

生死をさまよった徳川家康

そして、この時期、実は徳川家康は生死をさまよう病気になっています。

徳川の筆頭家老としての石川数正は限りなく際どい立場になり始めていました。

 

石川数正の出奔

石川数正は家康には遠慮なく発言をし、家康もそれを好もしく思っていました。

豊臣家との融和を外交上図りたい石川数正は孤立していったといわれています。

ここに石川数正の立場や役割を越えた感情が芽生えたでしょう。

そこが秀吉のねらい目でした。

その結果、石川数正は周辺の与力を誘い出し出奔、豊臣方に付きました。

 

徳川の軍制の確立

この石川数正事件の後、徳川家は軍事的なことを中心にがらっと編成を変えます。

それは三河時代からの伝統から、武田家の伝統を加味した軍事の再編成だったようです。

その象徴が井伊直政の赤備えにも表れています。

井伊直政の舞台には武田の遺臣が多く配備されました。

そして、この3年後1588年に実は酒井忠次も息子家次に家を譲り隠居しています。

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ここに、三河以来の徳川はモデルチェンジをしたと言えるでしょう。

その後、徳川四天王が二人に替わって徳川家を引っ張っていきます。

 

小田原征伐から関ケ原までの徳川黄金期を支えた徳川四天王

小田原征伐は1590年に始まります。

この小田原征伐からは徳川四天王が徳川を引っ張ります。

本多忠勝は主に軍事。

榊原康政は軍事と内政。

井伊直政は軍事と内政と外交。

本多正信は政治と外交。

大雑把に振り分ければこのような形で関ケ原が終わるまでの徳川家を支えます。

 

関ケ原から大坂の陣までにできあがる官僚機構

その後は大坂の陣までの間に徳川家は急激に官僚機構を整備します。

本多正信・正純を中心とした官僚機構は初期の徳川家を支えます。

その後、徳川秀忠の側近の台頭で本多親子も姿を消します。

そして太平と呼ばれた徳川260年を迎えました。

徳川家家老石川数正と酒井忠次・徳川四天王を紹介しました。

 

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