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明智光秀と織田信長の相思相愛な逸話と本能寺の変の謎

歴史 麒麟がくる

1582年6月2日。
明智光秀は本能寺の変で主君織田信長を襲撃し信長は最後を迎えました。

未だに謎とされている本能寺の変と明智光秀。
当時、様々なうわさが飛び交っていたといわれています。
世間的には明智光秀の行動は謎だったのでしょう。
そして本人からその理由などが伝わる前に明智光秀はこの世を去ります。
6月2日に本能寺の変を起こし、6月13日にはこの世から去っています。

そんな明智光秀と織田信長の相思相愛な逸話と本能寺の変の謎を紹介します。

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光秀信長相愛の逸話・・・織田信長が負傷しながらも明智光秀を助けた天王寺の戦い

浅井朝倉を滅ぼし、織田信長の近畿地方の敵は石山本願寺だけになります。
その石山本願寺は毛利氏と結び反撃を開始します。
当時、現在の大坂城の地にあった石山本願寺。
織田軍はその石山本願寺を監視するように周辺に砦を築いていました。

本願寺顕如は畿内から3万とも5万とも呼ばれる門徒を集めます。

そして、木津砦に攻め寄せた塙直政を返り討ちにし、天王寺砦へ進撃します。
天王寺砦を守っていたのは明智光秀でした。
明智光秀は京にいる織田信長に救援を要請します。

この時、織田信長は周りの部下のみを連れて急いで大坂に向かいました。
そして、たった3000の兵隊で1.5万とも5万ともいわれる本願寺勢に突撃します。
その突撃の結果、織田信長は明智光秀の守る天王寺砦に入ることができました。

この際に、織田信長は足を鉄砲で負傷しています。
その負傷の代償として、明智光秀の命を助けました。
このことは明智光秀は生涯忘れなかったでしょう。

光秀信長相愛の逸話・・・明智家の軍法に定められた織田信長の恩

明智光秀は本能寺の変の約1年前に、明智家軍法を制定しています。
その中にはこんな記述があったそうです。

自分は草莽から取り立てられてここまで出世できた。
それはすべて織田信長さまのお陰である。
そのことを忘れないように・・・と。

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光秀信長相愛の逸話・・・織田信長から最も引き立てられた明智光秀

織田家の出世頭といえば、羽柴秀吉といわれています。
しかし、本能寺の変の前、最も役割が重かったのは明智光秀です。

明智光秀は織田信長から近畿地区の管轄を任されています。
山城・摂津・河内・和泉・大和・丹波・丹後を明智光秀は任されています。

織田信長のいる近江国安土に一番近い場所に多くの管轄を任された明智光秀。
直轄領は丹波国・と近江国の一部ですね。

その勢力は優に5万近い兵隊を動かせます。
羽柴秀吉はその半分も管轄がありませんでした。

 

光秀信長相愛の逸話・・・本能寺の変はその極まりか

明智光秀が織田信長に愛されていたことは上記の通りです。
しかし明智光秀は本能寺の変で織田信長を殺します。

歴史の永遠の謎ですね。

愛極まってという話が人間社会にはありますね。
本能寺の変の謎はそのうち解明されるのではないかと思います。

また、証拠などはこれからも出てくるでしょう。
以上、明智光秀と織田信長の相思相愛な逸話と本能寺の変の謎を紹介しました。

明智光秀の最後と死因と家紋や子孫・本能寺の変の謎と家康

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