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西南戦争の政府軍勝因は大村益次郎の読みと緻密な事前準備

歴史 西郷どん

明治10年、西南戦争が勃発します。
圧倒的な声望を持つ西郷隆盛と惰弱な明治維新政府。
しかし、西郷隆盛と薩摩軍は敗退します。
なぜ西南戦争は政府軍が勝ったのでしょうか。
そこには時代の先を呼んだすさまじい人物の予見とそれにのっとった緻密な準備がありました。

西南戦争の政府軍の勝因は大村益次郎の読みと緻密な事前準備にありました。

 

西南戦争の政府軍の勝因・・大村益次郎の江戸鎮圧

明治維新は京の都で始まり、幕府の本拠地江戸まで鎮撫に進みます。
江戸に至った際に、幕府側の有志連合の彰義隊に悩まされます。

そこで長州藩の首脳たちは藩の軍略者大村益次郎を派遣しました。
大村は緻密な計算で戦争を遂行するタイプの軍略者です。

江戸の町を燃やさずに、政府軍とほぼ同数の彰義隊を江戸から追い出す作戦を遂行します。
雨の降るタイミングを考えて、その前日に少しだけ彰義隊を上野寛永寺の方に誘導していきました。
そして、当日戦いを始めます。正面を薩摩軍・搦手を長州藩が担当します。

ここでは一進一退でした。

しかし、益次郎はここでも計算通りに14時を迎えます。
そして旧加賀藩邸から佐賀藩の大砲を寛永寺に打ち込みました。
これにて有志連合だった彰義隊は拠点だった寛永寺を失い、江戸から敗走します。

そのような軍略家の大村益次郎は、次の戦乱に備えて様々な手を打っていました。

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西南戦争の政府軍の勝因・・・明治2年に西南戦争を予測した大村益次郎の予見と準備

大村益次郎は明治維新において日本領土を完全に制圧すると今度は軍制の改革を進めます。
日本中に鎮台と呼ばれる政府軍の地方部隊を創設します。
そして九州では熊本に本部を置き、小倉に支隊を置きます。

熊本という地域は加藤清正が赴任して熊本城を創設した時から、既に薩摩対策でした。
後に細川家が入りますが、隠居の三斎がみずから熊本城よりも薩摩川の八代に隠居城を築城したほどです。
大村益次郎はここに鎮台兵を置き、薩摩の将来への備えとしました。

大村益次郎の後継者山縣有朋の軍政

大村益次郎は薩摩の巨大な軍事力と西郷隆盛という声望家を軍略家として極めて危険だと考えていました。
そこで、周囲の人間にこんな言葉を残したといわれています。

‘いずれ九州から足利尊氏のごときものが攻めてくる。大坂に弾薬工場を作っておくように’と。

これが大村益次郎の遺言のようになりました。

その後、政府の軍政を担当したのは山縣有朋でした。
大村と同じ長州藩出身の山縣有朋は益次郎の意を十分に組んでいました。

明治6年、西郷の下野に合わせて桐野利秋らが薩摩に帰国すると、対薩摩の準備を行います。
そこで山縣有朋が行った人事は土佐藩の谷干城を熊本鎮台の司令官にすることでした。

谷干城はしぶとく守ることに定評があり、安定感を買われていた人物です。
その上で、小倉には後に日本の歴史上著名な人物となる乃木希典を配置しました。

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西南戦争の政府軍の勝因・・弾薬の差が西南戦争における新政府軍の勝因となった

せごどんでも取り上げられた西南戦争。
いくつかの描写がありました。

それは政府の圧倒的な弾薬量と薩摩軍の弾薬不足でした。
それは大村益次郎が考えていた大坂の弾薬工場からの支給でした。
また、山縣有朋は政府軍・鎮台兵は弱いので無理に戦わずに鉄砲を撃たすことに注力します。
戦況が佳境に至った際に、大久保利通が急士族による抜刀隊を川路利良に率いさせました。

これにて薩摩側は利点を失い続け、敗退へと向かいました。

私は福岡生まれなので、どちらかというと西郷隆盛方に期待をしつついつも本を読んでいます。
しかし、このような局面では、西郷軍は勝ちそうな雰囲気がありません。
一方で政府側にも多くの弱点が沢山ありました。
それはまた書きます。

西南戦争の政府軍の勝因は大村益次郎の読みと緻密な事前準備にありました。

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