戦国初期、関東には北条氏が興ります。
北条早雲・氏綱・氏康と有能な当主が家運を盛り上げました。
北条氏政。彼は氏康の息子です。次男でしたが、長男が16歳にして死したため、嫡男となります。
嫡男とは後を継ぐ正統な後継者という意味です。
北条早雲の墓や子孫・評価や逸話について紹介します。
北条氏政の評価・・・氏政は有能だった?無能だった?
氏政の母は今川義元の妹であり、妻は武田信玄の娘です。
氏政は暗愚であったと言われています。
しかし、氏康の死後、織田信長や上杉謙信と渡り合いながら家勢をもりあげていきました。
氏政にとって長年のライバルでもあった武田氏は織田信長の前に長篠の合戦で完敗します。
氏政はその脅威を目の当たりにして信長への臣従を進めます。
武田氏の滅亡時、群馬県は武田と北条で領有していました。
その分の武田領をすべて織田氏に献上するという妥協点を見つけました。
しかし、信長は北条氏への敬意がまったくなかったと言われています。
信長の死後、信長の家来だった滝川一益を破り、群馬の大半を占領します。
北条氏政の評価・・・外交手腕は有能だった
その後、山梨の全域、長野の北部の一部を除く全域を領有した徳川家と講和を結びます。
その条件が、山梨・長野は徳川領地。関東はすべて北条の領地。
という講和内容でした。
そこに真田家が登場します。
真田家は長野の一部(上田地域)と群馬の一部(沼田)を領有しています。
そして徳川家に臣従していました。
そうすると、徳川としては沼田の土地は北条に渡さなければならなくなります。
氏政は、一度は実力で奪おうと沼田城に押し寄せますが、昌幸の叔父矢沢頼綱の力戦と、茨城の佐竹氏・栃木の宇都宮氏が北条の領地に侵入してきたことで断念しました。
そして、氏政は家康に割譲を要求します。
徳川は真田にそれを命じますが、昌幸はそれを断ります。
そして徳川と真田は上田合戦に結び付きます。
徳川にとって久しぶりの敗戦だったでしょう。
家康も秀吉と敵対中だったため、深入りできませんでした。
真田の圧勝でした。
その後、上杉と真田は豊臣秀吉に臣従します。
徳川家もそれを追うように秀吉に臣従します。
そうすると、北条は孤立します。
北条は徳川とは同盟を結んでいましたので、家康は秀吉との間に入ることを何度も試みますが、結局うまくいきませんでした。
北条氏政の最後と無能という評価を叩きつけられた名胡桃城事件
そして、北条氏の滅亡のきっかけとなる事件が起こります。
名胡桃城の事件です。
秀吉は、北条と真田の争いに一度、裁定を入れました。真田の持つ関東の所領である沼田領の3分の2は北条のものとする。残りの3分の1は真田の物とする。
一度はそれで収まったものの、今度は北条の家来が名胡桃城を攻撃するという事件が起こりました。
真田昌幸はすかさずこれを秀吉の威光を無視した攻撃であると主張し、ついに秀吉は北条氏の征伐を決めました。
氏政は信長を恐れていましたが、秀吉のことは何故か見くびっていたような印象があります。
そして22万とも25万ともいわれる大軍が小田原城に押し寄せます。
北条の総兵力は当時約8万。
しかし、小田原城を包囲され秀吉得意の土木作戦で腰が砕けます。
秀吉は小田原城を見下ろす山にお城を築きます。
お城を築き終えて、周囲の木をすべて剪定したといわれています。
北条から見ると、1日でお城ができたように見えたそうです。
これが小田原の一夜城です。
北条氏政の墓と子孫と評価
これで勝負がつきました。
氏政は切腹、息子の氏直は家康のとりなしにより助命されますが、その後すぐに死去します。
北条は家康と親しかった氏規が後に跡を継ぎ、幕末まで残りました。
北条氏政の子孫は直系は残りませんでしたが、弟の子孫が残りました。
時代の勢いと家運と家勢が交わることがなければトップにはなれないのでしょう。
そう考えると北条氏政の評価は難しいと思います。
少なくても無能という評価は酷だなと思います。
北条氏のお墓は箱根の早雲寺にあります。