Warning: count(): Parameter must be an array or an object that implements Countable in /home/naramachiinfo/www/fuzimaru/wp-includes/post-template.php on line 293

真田幸村と真田信繁の名前の由来

歴史 真田丸

真田幸村。
大河ドラマ真田丸も大好評でした。
真田幸村と真田信繁の名前の由来と違いは何でしょうか。
じつはこの由来には父昌幸の思いがこもっていました。
真田幸村と真田信繁の名前の由来を紹介します。

2012-06-04 15.22.42

正式には真田幸村と真田信繁のどっち!?

大河ドラマ真田丸の中では「源二郎」でした。
一方で、有名な名前は真田幸村ですね。

しかし彼は生前に自ら幸村と署名した文章等はないそうです。
なので真田幸村ではなく真田信繁が正式のようです。

真田信之が徳川家を憚って真田信繁を真田幸村にした!?

真田家本家兄の信幸の家では大坂の陣以後、彼を幸村と使った事があったそうです。
真田信繁の名前は徳川家に対して弓を引いた人間として名前を憚ったのでしょう。

幸村の幸は真田家の諱であり信繁の祖父幸隆や息子にも幸昌と名前を付けています。
ちなみに、信繁の息子幸昌は通称大助でした。

さて、信繁という名前についてです。

真田信繁の名前の由来は武田信玄の弟武田信繁から

彼が生まれた際に付けられた信繁という名前は実は非常に重要な意味を持ちます。
真田昌幸は信繁が生まれた当時、武田信玄に仕えていました。

武田信玄には4歳下に次郎という弟がいました。
信玄は父信虎と関係が良好とはいえない幼少期を過ごしていました。
それに対して、弟の次郎は利発で信虎が寵愛していたといわれています。

信玄は父、信虎を追放します。
これは家督相続に絡んでの追放劇だったようです。
普通は父が溺愛した人物がいた場合、父の追放と共に殺されるか追放されます。

しかし、その後も次郎は信玄の下で副将軍として活躍します。
この点だけを見ても次郎が非常に器量人だったことがわかります。

彼は1561年、上杉謙信との戦い川中島の戦いで戦死します。
次郎は非常に名前のとどろいた人物だったようです。
信玄だけでなく、敵方の謙信からも死を悼まれます。

さて、その次郎という人物の本名が武田信繁でした。

スポンサードリンク

真田昌幸は信繁と付けるにあたり、自分の尊敬する主君、武田信玄の補佐役だった信繁から名前を取りました。
それにはきっと、兄を支える弟としての役割を期待したのでしょう。

戦国時代を見渡しても、兄を支え切った武将というのはあまり思い浮かべません。
私がすぐに思い浮かべるのは豊臣秀長です。

逆に兄を凌ごうとして殺される人物としては伊達政宗の弟、小次郎や織田信長の弟信行(信勝)が著名です。

実際には昌幸は長男の信幸よりも次男の信繁を可愛がっていた形跡があります。
その姿は信虎と一緒ですね。。

真田信繁の名前の由来は武田信玄の弟として勇名を馳せた武田信繁から取られていました。

真田昌幸という人物は、表裏比興の者と秀吉から言われます。
希代の曲者だったのでしょう。
しかし、不思議と真田昌幸は人を裏切ったりはしていないんですね。
そんな真田昌幸は主家武田家の事が非常に誇りであり懐かしくあったでしょう。
そこに真田信繁が登場し、真田幸村となっていきます。

非常に生き方に拘った父を持った真田信繁。
また大河ドラマ真田丸も非常に面白かったですね。
真田信繁と真田幸村の名前の由来を紹介しました。

スポンサードリンク
%d人のブロガーが「いいね」をつけました。