大坂についた真田信繁は秀吉に翻弄されます。
秀吉は人間としての素の部分と政治家としての仕事の部分をうまく使い分けて見せます。
きりなどはすっかり人間の素の部分しか見ることができないですね。
日本の社会はほんの一握りの時代を除けばやはり男社会だったと思います。
真田丸の感想ですが、15話のポイントは秀吉の素顔と政治家としての顔だと思いました。
一握りとは源頼朝と北条政子の時代です。この点についてはまた書きたいと思います。
政権が安定すると、人と人を繋ぐ役割として女性の活躍する場所ができてきます。
秀吉の正室「寧々」や側室となる淀君、そして秀吉の母である大政所などよく出てきます。
また、親族の男性も多く出てきました。
秀吉の死後、豊臣政権は1598年の秀吉の死後、16年で豊臣家が滅ぶため、ほとんどの人が
その後20年も生き続けることができませんでした。
それはにわかに勃興した秀吉政権の弱点ですね。
家康の方には親子代々、徳川家の家来で、しつけや教育には一定の規範があったでしょう。
秀吉政権の短命は急成長して政権を取ってしまった余波ともいえるでしょう。
また、秀吉自身が遊郭に遊びに行くというような描写もありました。
実際には秀吉の身分では遊郭まではいけなかったでしょう。大騒ぎになったでしょう。
この場面は福島正則という感情の豊かな人間を登場させるための演出だったのかなと。
一方で、政治家としての秀吉の仕事はこの時期クライマックスに入っています。
1584年には徳川家康との小牧長久手の戦いが起こります。
この時、越中の佐々成政や四国の長曾我部元親・紀伊の豪族などが家康側につきました。
1885年には四国征伐において四国ほぼ全土を手中に収めていた土佐の英雄長曾我部元親を屈服させます。
上杉景勝の上洛は1886年6月です。家康は同年10月に上洛しています。
家康の臣従後、1887年には九州征伐を行っています。
上杉景勝が秀吉に臣従するかしないかというような描写がありました。
しかし、実際には上洛することはそのまま臣従することだと当時は認識されていたでしょう。
対等であれば会いたいのであればそちらから出向いてこいというのが常識だと思います。
そして、茶道がその世界を繋げていきます。
千利休という人が茶道という世界を大成させます。
茶道は当時爆発的な経済成長における物事の価値観の多様化を統一することに非常に意義がありました。
その中で、利休は価値観を道具だけでなく、人の所作などにも求めました。
そして秀吉がそれを政治に利用したのでしょう。
千利休はこの5年後に政治に介入しすぎたというような言いがかりをつけられて切腹を命じられます。
秀吉は小田原北条氏を征伐した後、晩年にはいります。そして極度に老化します。
そして朝鮮征伐などのあまり秀吉政権にとってメリットのないことを繰り返します。
それが豊臣政権に対する諸大名の心が離れる原因の一つでした。
そんな政治的事情がありました。
この束の間の家族の空間は彼らにとって一番幸せな時間だったという描写がありました。
私もそう思います。
本来はこの家族の席には他にも養子や猶子としてきた人間も多かったでしょう。
真田丸の感想 15話について書きました。