大河ドラマ真田丸では、石田三成の登場回数が信幸などを圧倒していました。
この時代の中心人物の1人石田三成。
今回は石田三成の逸話・・石田三成と徳川家康・島左近の逸話とその最後を紹介します。
石田三成は諸大名には横着者だとかなり嫌われていました。
石田三成の逸話・・・石田三成と徳川家康の逸話
ある冬の日、三成が篝火で暖を取っていました。
隣には同じ五奉行の浅野長政がいました。
この日、三成は頭巾を被っていたそうです。
急に風が吹き、三成の頭巾が飛んだそうです。
そしてその頭巾は徳川家康の足もとに落ちました。
家康はその頭巾を取って三成に渡したそうです。
しかし、三成はお礼もいわずにそれを被りました。
それを見て浅野長政が怒りました。
頭巾を脱いでお礼をいえ! と。
それでも三成は家康に礼を言わなかったそうです。
一方、家康の方は別に怒りもせずに去ったそうです。
石田三成と徳川家康の直接的な逸話はこれ以外にはあまりないですね。
始めから石田三成は徳川家康を仮想敵にしていたのがわかる逸話です。
石田三成の逸話・・・石田三成と島左近の逸話
三成に過ぎたるものが二つあり、佐和山の城に島左近。
当時、そう謳われていたそうです。
島左近勝猛。
島左近は奈良の生まれで筒井順慶の侍大将でした。
彼は筒井家での仕事を辞めて、隠棲します。
一説には、本能寺の変が影響したようです。
筒井順慶は明智光秀に加勢しませんでした。
そんな日和見をした主人を見限ったという説があります。
隠棲した左近の元に三成が訪ねてきます。
豊臣政権は秀吉の魔術的な政略・戦略のお蔭で大きくなりました。
秀吉の子飼いの武将たちは急に大名になったこともあり、家臣に苦労します。
秀吉から預かった領地にはそれ相応の軍事力の提供を求められます。
それを子飼いの武将たちに変わって代理として動ける侍大将が必要でした。
そこで石田三成は、この島左近に目をつけました。
当時、石田三成の石高は4万石でした。
そのうち2万石を左近に与えたという逸話が残っています。
石田三成のために関ケ原で奮闘した島左近の逸話
島左近は関ヶ原の戦いで大奮戦します。
その凄まじさは対峙していた黒田家の侍の脳裏に残ったそうです。
福岡の城下町では左近にうなされた侍の話が多く残っています。
島左近は作家の司馬遼太郎さんの「関ケ原」の主人公にもなっています。
ある日、福岡の侍が集まり、関ヶ原の話をしていたそうです。
そして恐ろしきは島左近という話になったそうです。
しかし、集まったほとんどの人間の記憶が曖昧でした。
島左近の兜や装束の記憶がまちまちだったようです。
石田三成の逸話・・・石田三成の発明の逸話
石田三成は秀吉の秘書課長でもあります。
多くの書類を作成して諸大名に送る仕事をしていました。
そして送る書状は他人には見せられないですね。
そこで彼はそこに封をする知恵を絞りだします。
そこで、三成は米粒で糊とし、封をすることを考案したといわれています。
石田三成の逸話・・・幻の100万石の領地の逸話
朝鮮出兵は2回行われました。
1回目は文禄の役、2回目は慶長の役と呼ばれています。
2回とも、総大将は秀吉の一門から選ばれています。
1回目は宇喜多秀家が総大将でした。
2回目は小早川秀秋が総大将でした。
小早川秀秋は総大将にも関わらず、自ら槍をとったといわれています。
10万人の社員を持つ会社の社長が試食売場で奮闘するような・・・。
そして女子供に手をかけてその鼻や耳を集めて秀吉に送ります。
当然、それは総大将の仕事ではないため、秀吉は激怒しました。
そして秀吉は秀秋を九州へ呼び返し、所領を召し上げました。
召し上げられたのは筑前の所領だったといわれています。
その所領は大凡50~60万石はあったでしょう。
秀吉はそれを三成に与えるといいました。
しかし、三成は領国が大坂から遠いと秀吉の仕事の手伝いができなくなると断ったそうです。
しかし秀秋にしてみれば、三成がすべての処置をしたので、三成を深く恨みました。
そして、関ヶ原の前夜にも三成が訪ねてきても返事もしなかったといわれています。
石田三成の逸話・・・百姓を領民を大事にした逸話
関ヶ原の戦いに敗れた後、三成は市橋村という村に辿り着きます。
ここはかつて飢饉の時に三成が年貢を免除した土地だったそうです。
年貢免除だけでなく、施しもしたようです。
それに対して村人が彼を洞窟にかくまい続けました。
しかし、三成は村人に罪が及ぶことを恐れて自首させました。
三成は領民思いの大名だったのでしょう。
一方でこの話には裏の話も残っています。
自首をした人物は養子として隣村から来ていたものだったと言われています。
彼が自首したことで三成を失った村では、養子を採らないようになったと言われています。
石田三成は逸話の多い人物です。
関ヶ原の戦いに敗れたとはいえ、二流ではない人物だったのでしょう。
彼は政治と外交に抜群の力を発揮しました。
その一方で、戦争は苦手だったのでしょう。
私は石田三成がとても好きです。
石田三成の逸話を紹介しました。