大河ドラマ真田丸。
若い人にとってはほぼ初見だと思われる真田昌幸。
草刈正雄が演じる真田昌幸。
真田丸では真田昌幸はちょっとおどけたところもある人物になっています。
草刈正雄さんはかつては真田信繁(幸村)を演じたことがあったそうですね。
そんな真田昌幸は秀吉の東国平定のキーパーソンでした。
真田丸21話先端のあらすじとその背景を紹介します。
真田昌幸。彼は智将真田幸隆の3男。長男信綱と次男昌輝は長篠の戦いで戦死します。
真田昌幸は世代的にいえば、勝頼世代です。
信玄の時には最強を誇っていた武田軍団も、勝頼の代で衰退します。
信玄の時代は武田家という組織にとって良い時代だったでしょう。
勝頼の代になると、完全に信長などの貨幣経済が農村経済を圧倒していきます。
勝頼の代で著名な武将は、真田昌幸ぐらいですね。
真田昌幸の領地は長野県北部の上田市の界隈と群馬の沼田市界隈です。
さて、織田信長政権は本能寺の変で空中分解します。
亡くなったのは信長だけではなく、後継者の信忠も戦死してしまいました。
これは痛いですね。信忠の息子の三法師は当時わずか3歳でした。
そこに秀吉は目をつけます。
そして、三法師の後見人として、日本を併合していきます。
秀吉は柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破ります。
ここで完全に織田政権の後継者になります。
そして、東国平定に突き進もうとします。
当時の東国の有力者を紹介します。
佐々成政。領地は富山。信長の近習あがりで石高約50万石。
徳川家康。領地は愛知東部・静岡(東部除く)・山梨・長野南部で約150万石。
北条氏政。神奈川・東京・埼玉・千葉の一部・栃木の一部・群馬の大半で約250万石。
上杉景勝。新潟県の大部分で約50万石。
佐竹義重。茨城県の大部分で約50万石。
里見義弘。千葉県南部で約20~30万石。
伊達政宗。宮城県南部・福島県北東部で約120万石。
伊達政宗は勢いからいうと、秀吉の平定が遅れれば200万石程度は行っていたでしょう。
これに対して、秀吉政権に臣従した領土はおおよそ650万石ぐらいでしょうか。
ちなみに真田昌幸の領地はおおよそ10万石もあったかどうかというところでしょう。
東国平定ではまず上杉景勝が秀吉に臣従します。
これは元々、北陸の柴田勝家を共通の敵にしていたので誼(よしみ)がありました。
そして、その上杉家と長年の盟友関係にあった佐竹・里見は秀吉派となります。
家康は当初、北条家との連帯感をかなり強めていました。
そして秀吉に戦争では勝利します。
しかし、やはり中央政権が強いんですね。
結果、家康は秀吉に臣従します。
ここで、東国に残ったのは北条と伊達の2大名になります。
外交で秀吉はここまで絞り込んでいます。
秀吉は惣無事令を出します。
勝手に戦争を行ってはいけないという命令です。
伊達政宗はイケイケだったのでそれを無視して戦争を繰り返しました。
それに対して、北条家はそれに従っていました。
北条家は先に家康との和議の条件だった関東は北条領という話を蒸し出します。
そして秀吉に交渉します。
ここで真田昌幸が出てきます。
真田昌幸は家康の与力になっていました。
家康は北条との約束にしたがって真田昌幸の領地の差し出しを求めます。
昌幸は自分の領地を差し出す事を拒否しました。
当たり前ですね。
家康は昌幸に何の恩賞も与えていませんでした。
そして昌幸はさっさと秀吉に臣従します。
そして、秀吉と北条の交渉が始まりました。
ここが真田丸21話先端のあらすじと背景の重要な部分になります。
真田昌幸の石高約10万石のうち、沼田は3~4万石はあったのではないでしょうか。
北条は秀吉から真田が領地沼田地域の3分の2の地域を手に入れます。
つまり、昌幸は秀吉に屈服しました。
おそらく何か密約があったでしょう。
そして残りの3分の1の土地を北条家が奪おうとします。
北条家の家来が秀吉の惣無事令を無視します。
真田家に残った沼田領には名胡桃城というお城がありました。
それを騙し討ちにして取り上げます。
真田は激怒して秀吉に通報します。
秀吉は良い口実ができたと北条征伐に出掛けます。
これが小田原平定となっていきます。
北条家は領内に善政を敷いていたため、領民の一部も戦意盛んでした。
秀吉政権は実に25万といわれる大軍を集めました。
北条家は合計で8万の軍を集めます。
しかし、秀吉は無理をしないんですね。
貨幣経済の上にいる秀吉政権はリッチです。
今でいうIT企業でしょうか。
北条家の本城、小田原城を囲みます。
そしてすぐ近くにお城を立てる余裕を見せます。
そして戦意喪失した北条家は降伏します。
北条家の降伏の前に、伊達政宗が秀吉に臣従しました。
ここで、秀吉の東国平定のほとんどが終了しました。
真田の土地を巡って、北条が戦争をしてしまう。
秀吉の命令に背いたことになる・・・。
真田丸21話先端では東国平定の先端を昌幸が担うということでしょう。
真田昌幸は秀吉の東国平定のキーパーソンですね・・・。
また、家康に対して苦手意識を持っていた秀吉。
そんな秀吉にとって徳川家に勝利している真田の存在は好ましかったでしょう。
北条家滅亡後、家康は秀吉から関東への移封を命じられます。
250万石。家康は150万石から一揆に100万石を手に入れます。
しかし、関東は北条家が管理していた租税の安い地域です。
かなり苦労したそうです・・・。
そして、家康の与力だった長野県のほとんどの大名は家康と共に関東に引っ越します。
しかし、真田だけはそのままでした。
ここで真田昌幸の石高は8万石。
息子の真田信幸には沼田3万石が与えられました。
合計で真田家11万石ですね。
ちなみに一説によると、ここで真田昌幸は後継者の信繁(幸村)にしたと言われています。
信幸は沼田に領地をもらったんですね。
そして、上田の真田の領地は昌幸と信繁(幸村)の領地となります。
昌幸は長男ではなかった人物です。
長男の信幸の生真面目さよりも信繁(幸村)を好んでいたのでしょうか。
信幸はこののち、関ヶ原の戦いなどでも東軍について家を守ります。
そして、昌幸・信繁(幸村)の助命嘆願にも奔走し、家康に認めさせました。
信幸とはすごい人物です。
その信幸が大坂の陣後に、残した逸話があります。
信繁(幸村)は物静かで声を荒げることがない落ち着いた人物だった。
そう信繁(幸村)のことを評していたそうです。
そうだとすると、すごい兄弟だったのでしょう。
ちょっと話がそれました。
真田昌幸は秀吉の東国平定のキーパーソンでした。
真田丸でも真田昌幸の活躍の場が目の前まで来ています。
真田丸21話先端のあらすじと背景を紹介しました。
※いつも写真が適当ですみません・・・。
家康から見た真田昌幸的な雰囲気はこんな感じかなと・・・。
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