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豊臣秀吉について その2 中国大返し

歴史 真田丸

豊臣秀吉について書いています。

その2は中国大返しについてです。

この頃の秀吉の名乗りは羽柴です。

羽柴秀吉。

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織田信長から豊臣秀吉への新たな指令

秀吉は滋賀県長浜を貰って次なる指令を織田信長からもらいます。

それが中国地方の制圧です。

織田家の軍団性と各方面司令官

信長は戦線が広くなるにつれて、軍団性を取ります。

時期は前後しますが軍団性は以下の通りです。

北陸方面は柴田勝家。

丹波・丹後方面は明智光秀。

大坂石山本願寺は佐久間信盛。

関東方面は滝川一益。

中国方面は羽柴秀吉。

四国方面は丹羽長秀。

このうち信長の一番の強敵は広島の毛利氏でした。

したがって、秀吉が最も華やかな舞台を引き受けることになります。

秀吉は紆余曲折がありましたが、毛利家を圧倒していきます。

決め手は、岡山の領主、宇喜多直家が毛利を裏切ったことです。

宇喜多は当初毛利に属していましたが、形成を読んで秀吉側につきます。

中国地方は、山口県、広島県・島根県・鳥取県・岡山県・兵庫県西部でしょうか。

毛利家は当初、姫路界隈まで勢力を伸ばしていました。

しかし、岡山の宇喜多の裏切りで戦いの舞台は岡山県・広島県の境目に集中します。

そして、岡山市北区の毛利家の城高松城で毛利と秀吉は最後の決戦を迎えます。

秀吉はここで、水攻めを採用します。

秀吉の土木建築技術・戦略はそれまでの日本にはない世界でした。

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もう一つ、秀吉は手を打っていました。

秀吉という人は信長への配慮がほぼ完璧です。

毛利家は織田家の最大の敵でした。

それを独力で攻め滅ぼす事を恐れました。

なので、もう一押しというところで、信長に出馬を要請します。

信長は要請されて、動員令を出します。

信長の動員令に応じることができるのは、関西の担当の明智光秀です。

明智光秀は関西の総指揮権を持っていたと言われています。

光秀は家臣を本城の丹波亀山城に集めます。総勢1.2万人と言われています。

信長はその日、本能寺に近臣50名のみで宿泊していました。

光秀は本能寺の変へと進みます。

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一方、高松城の攻防戦では、毛利家は秀吉に和睦条件を提示します。

信長が来ればもう和睦はできないと踏んでいました。

実際に、毛利家は秀吉との度重なる対戦でとても疲弊していました。

また、秀吉は局地的な場面ではしっかり信義を持って交渉をしていました。

なので、毛利にはとても信頼されていたようです。

そんな状態で本能寺の変が起こりました。

最大の敵だった毛利は秀吉と和睦したがっています。

 本能寺の変時、実は一番有利な条件にいたのは秀吉でした。

相手は最大の敵毛利家なので、織田家で最も多く兵隊を任されていました。

その数、おおよそ3万人。

一方の、明智光秀。

彼は関西の統治をほぼ信長から委任されていました。

自らは滋賀県南西部13万石。それに丹波に30万石。

他の所領合わせて約50万石の領地を所有しています。

動員兵力は1.25万人です。

光秀は本来、自分の与力だったほとんどの大名から裏切られます。

光秀が考える新しい秩序というのがあったかはわかりません。

しかし、世間は光秀より秀吉を重く受け止めました。

それでも、明智軍団は精強で、秀吉軍は手こずりました。

両者は京都山崎にて合戦を行います。

結果、秀吉が勝ち、まずは信長の仇討を行うことができました。

この時期の秀吉は単独での戦いなどを行うようになります。

そして徐々に人材が集まります。

中国攻めの当初、竹中半兵衛が軍師でした。
半兵衛は途中で若くして亡くなります。
その後は黒田官兵衛が跡を任され軍師となります。

ちなみに、秀吉は官兵衛のことを「くわんぴょうえ」と言っていたそうです。

山崎の合戦に勝利した秀吉は次に信長の後継者として、織田の重臣たちと争いを始めます。

続きはその3に書きます。

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