太平洋戦争。日本の歴史の中でも最も戦死者・被災者の多かった戦争です。
今となってはもう見ることがなくなった風景があると父が教えてくれました。
私の地元は福岡県太宰府市。
祖父母は参道で和菓子屋をすることで生計を立てていました。
昭和27年生まれの父が戦後にみた太平洋戦争の記憶。
それは縁日に募金を求める傷痍軍人の姿でした。
傷痍軍人とは、戦争で負傷して帰還した元軍人のことです。
負傷は当時は名誉とされていました。
しかし、その一方で、実生活としては悲惨だったといわれています。
傷痍軍人には恩給などの保護制度がありました。
しかし、GHQの占領後、恩給は停止されてしまったそうです。
1951年9月8日。サンフランシスコ平和条約で恩給の再配給の権利を取り戻します。
1953年に恩給法の改正により再び恩給を出すことができました。
1945年8月15日の降伏以降、8年の時間があります。
戦争で負傷して帰還した元軍人の人たちの生活はどうだったのでしょうか。
傷痍軍人は負傷した場所によっては仕事には差し支えます。
そして、戦後は焼け野原から日本は始まっています。
傷痍軍人の働く場所というのは少なかったといわれています。
そして、私の父が言っていた縁日などで楽器の演奏などをして募金をしていたそうです。
軍人恩給はそれだけで食べていくことができる額ではないようですね。
日本中、人の集まる場所には必ず傷痍軍人の姿があったといわれています。
厚生労働省や総務省のホームページには恩給の紹介が今でも載っています。
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/senbotsusha/seido03/
また、傷痍軍人の苦労等を語り継ぐための施設が東京にはあるようですね。
しょうけい館
今、日本の社会では、縁日というものも人が集まらないようになりました。
奈良の旧市街地‘ならまち’では地元の氏神神社の縁日には屋台も出なくなりました。
次回、東京に行く際にはしょうけい館を訪ねようと思います。
私の父によると、昭和50年代になって傷痍軍人の姿は徐々に消えていったそうです。
日本に限らず、この時代、多くの若者・社会を担う人材が、戦争で未来を失ったのでしょう。
私は地域振興を行っている会社の人間として、地域の過去も学んでおきたいと考えています。
今、町で交流のある多くの高齢者の方々が見てきた風景を少し学ぶことができた気がします。
太平洋戦争の記憶 傷痍軍人の話でした。