1945年8月9日。
長崎に原爆が投下されました。
日本に二発の原爆を投下。
原爆の被害国は太平洋戦争後71年経ってもまだ日本だけです。
これは非常に大きな事実ですね。
そして、前回、オバマ大統領はこのような発言をしています。
「あと数年もすれば被爆体験者の話が聞けなくなる」。
これもまた事実ですね。
さて、私はここ3年の間に長崎に実に5回ほど行ってます。
一つは茶道関係に知己が多いことです。
また、私個人も長崎がとても好きです。
今回はそこでお聞きした原爆の話について書きたいと思います。
私の知人は現在85歳。
先日、奥様を亡くされています。
1945年8月9日。
当時、その方は当時14歳。
現在の長崎大学経済学部隣を流れる大川のすぐ近くに家がありました。
原爆が爆発した日。
その方はよく覚えているそうです。
原爆投下場所は現在は平和公園となっています。
そこから約3キロの地点にその方の家がありました。
その間にはちょうど山があります。
金毘羅山です。標高366m。
その方は爆発の瞬間、その方角を向いたそうです。
しかし、光は直接は見えませんでした。
ちょうどその間に山がさえぎったようです。
原爆は高度503mの地点で爆発しました。
その瞬間、風に飛ばされそうになったそうです。
しかし、耐えることができたそうです。
その方は被爆の影響はほとんどなかったそうです。
その一方で被爆手当のお陰でその後も不安にならずに過ごせたといわれていました。
金比羅山の上には金比羅神社が鎮座しています。
その方は、自分が生き延びることができたのは金比羅神社のお陰だといわれていました。
その方から聞いた原爆のエピソードはまとめるとこのような感じでした。
その方はその後、高校の校長先生となり、現在は引退されています。
これは余談ですが、校長先生だったころに面白いエピソードがあったそうです。
当時、日本には不良文化が最盛期だったそうです。
そのころ、一人の背の高い若者が入学志願してきたそうです。
リーゼントが決まっている一見して不良とわかる若者だったそうです。
学力や学校の風紀を鑑みて、落としたそうです。
それがのちの福山雅治だそうです。
その方の一言でもしかするとその高校出身の歌手になっていたかも・・・。
そうお話ししてみると、
「うちにきてたら、今頃歌手じゃなかったかもなぁー 笑 」
とお話しされていました。
この方は教育者であり、そしてちょっと楽天主義者だと思います。
原爆という悲惨な歴史を経験し、その後その町の復興の担い手の一人として多くの人材を社会に送ってきたでしょう。
そんな方の原爆体験は意外にあっさりとしたものでした。
歴史は時に実態の把握ができることから、悲惨に感じてしまいます。
しかし、その方のように陽気に時代を乗り越えた人も日本には大勢いたのではないかと思います。
このお話しをお聞きして、私は少し心が軽くなったのを覚えています。
しかし、実際には多くの人の人生を暗いものにしたでしょう。
ご冥福をお祈り申し上げます。
太平洋戦争の記憶。長崎の原爆、金比羅神社に助けられた被爆者の話でした。