真田信幸。
彼は関ケ原後に改名し。真田信之と名乗ります。
真田丸の登場人物真田信幸について紹介します。
明治に入り、信幸の子孫が長持を開けました。
その長持は徳川家康から拝領した脇差を納めていると言い伝えがあったそうです。
徳川の世が終わったため、子孫がこの長持を開けました。
すると、中に入っていたのは信幸の父、昌幸と石田三成のやり取りの密書などでした。
江戸時代は徳川家の世です。
危険な記録を家康から拝領脇差を入れたという口実で封印していました。
信幸の武略を象徴する話があります。
信幸は17歳で800名の軍勢で手丸子城の救援に向かいます。
対する敵方の北条方の猛将富永主膳と5000の兵。
信幸到着前に落城させ入場していました。
信幸は800の兵で敵方の3倍も必要だといわれる城攻めを敢行します。
しかも相手は猛将に率いられた5000の兵。
信幸は塀や門が壊れたままの城の弱点をうまく利用します。
暗闇には本当は何か潜んでいるのではないかという心理。
信幸は城の北側に兵を忍び込ませ、「裏切者が出た」と叫ばせます。
そして決死部隊で正面から突撃しました。
城攻めを終わらせたばかりの北条方。
疲労もたまっていたでしょう。
混乱した北条方は落としたばかりの城を放棄して退却しました。
信幸は戦争にも非常に長けていたといわれる証拠です。
本多忠勝は自分の娘稲を信幸の妻にします。
これは本多忠勝が信幸に惚れての行動だといわれています。
なので、信幸の前妻は引き続き側室に残ることができています。
真田信幸伝来と伝わる甲冑から信幸の身長を推測すると181センチ前後になるそうです。
小男だったらしい信繁。
当時の男子の平均身長は150~155センチだといわれています。
なので非常に体格の良い人物だったのでしょう。
真田丸での真田信幸は父と弟に振り回されるような印象です。
起用で動き回る印象の弟、信繁。
信幸は弟について「思慮深く物静かな人物だった」。と記録を残しているようです。
歴史では、人物を業績から性格を導き出すようになりがちです。
昌幸・信繁に比べると、信幸は事歴が少し地味です。
しかし、家を守ることに成功した信幸は江戸期の大名真田家の始祖と言えるでしょう。
真田丸の登場人物真田信幸について紹介しました。