大阪の町を歩くと、賑やかさと言葉のやり取りに心が躍ります。
そんな大阪の町について考えてみました。
大阪の町としての成り立ちは1583年の豊臣秀吉の大阪城築城が直接的な原因になるかと思います。
秀吉は大阪城の築城と共に、大阪の町の設計を行います。
豊臣政権が行った大阪の都市設計は船場のみであったといわれています。
大阪の町は船場から始まりました。
船場から見て、「北」方向にあたる梅田界隈を‘キタ’というのはその名残です。
同時に船場から見て「南」方向にあたる難波界隈を‘ミナミ’というのもその名残です。
江戸時代になります。
徳川家康は政権奪取後も経済的機能は大阪・政治は江戸で行います。
その結果、大阪からは政治という国家的事情が撤退します。
大阪の町は経済の中心としての地位を確立していきます。
全国の大名はその所領から上がるコメを消費用以外は大阪に回します。
そこで、大阪には蔵屋敷が立ち並びます。
全国から米を中心とした物資が集まり、そしてまた商いされて全国に流通していきます。
大阪の経済を支えていたのは北浜界隈に繋がれていた北前船です。
この北前船は大阪から北海道・岩手ぐらいまでを往復します。
大阪の古着を岩手に売り、北海道のイワシなどの肥料を奈良に売り、奈良で木綿を作り、京都・大阪で衣類になり、また古着になります。
簡単に言うと、このような経済の流れを動かしていたのが大阪の歴史です。
北前船は一度出航して帰ってくるまでに今の時価で1億円近く稼いだそうです。
日本の物流は大阪が差配していたと言えるでしょう。
大阪は繁栄を極めます。
大阪の治安を守る大阪城代の人数はわずか200名たらずだったそうです。
大阪の街中では神社の裏で子供が銭を積み上げて博打をしていたといわれています。
大阪の自由闊達な雰囲気はこのころの商売市場原理から来ているのでしょうか。
そんな大阪の江戸時代は多くの偉人を輩出しています。
山片蟠桃・緒方洪庵・大塩平八郎。
商業とは現実社会の発展でもあります。
無神論や生産者である農民のための政治。
そんな考えが大坂の町で語られ続けました。
幕末。
時代の沸騰と共に、大阪も喧噪が襲ってきます。
佐幕・勤皇と考えが分かれた時代。
大阪の町にも多くの志士と呼ばれる人が集まってきます。
大阪城代の200名の侍だけでは町の治安は維持できなくなりました。
そこで、奉行所の手伝いをしていた人間を急遽、治安維持に活用します。
札付きの博打などを侍にしたそうです。
そんな侍のことを大阪では‘えらいこっちゃ侍’といったそうです。
えらいこっちゃ侍は日本橋界隈で売っている‘切れない刀’を差していたそうです。
ちょっと笑えるような話です。
しかし、大阪の幕末はそんな感じだったといわれています。
明治維新。
明治維新は諸大名による分権性から明治政府による強力な中央集権制への移行です。
大坂の町は経済的に衰退を始め、昭和の初め頃、北前船は姿を消します。
とって代わったのは汽車です。汽車は明治維新の象徴でもあるでしょう。
汽車は物流の中心となります。
「大坂」は転がる坂を連想すると、地名を大阪から大阪に変えました。
今、大阪に垣間見える商人の町の名残を紹介します。
それはエスカレーターの利用の仕方です。
商人は一般的にそろばんを持ち歩いていました。
そろばんは基本、右の脇に挟みます。
そして、市(いち)でもどこでもすぐに計算できるようにします。
左手で支えて、右手ではじきます。
お互いそろばんが近いのは相手の右側に立つことですね。
すると、お互いが相手の左側を歩くことが便利になります。
便宜上、右側に立ち止まり、通行は左側になります。
エスカレーターは諸説あります。
私はこれが今に残っている名残かなと思います。
私は大阪に2年住んでいました。
大阪はあまり役人のいなかった町です。
今、大阪の街を見ているとその良し悪しを感じます。
そんな大阪が私はとても好きです。