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大坂の陣で豊臣方が冬の陣に勝つためにやるべきだった3つのこと

歴史 真田丸

1467年に始まった応仁の乱から約150年で徳川秀忠の天下統一宣言が出ます。

最後の戦いといわれている大坂の陣。
豊臣方にはいくつか勝機があったと思います。

大坂の陣で豊臣方が冬の陣に勝つためにやるべきだった3つのことを紹介します。

2016-04-14 13.10.49

1豊臣方は出撃するべきだった

豊臣方は天下の堅城大坂城がありました。
出撃して成功すればよし。
負ければさっさと籠城すればよかったと思います。
豊臣方の士気は異常に高く、戦いを有利に進めていた可能性は十分にありました。

家康は早い段階で京に来着しています。
もちろんそれなりに軍勢を率いていたとは思います。

徳川方の軍勢の多くは秀忠が率いて江戸から到着します。
秀忠は関ケ原の戦いの遅参から結局は軍勢を途中に置き去りにします。
豊臣方が一気に京都へ出撃すれば、良い戦いになったでしょう。

 

この間にかなりの時間がありました。

1614年10月2日に豊臣方は大坂に牢人を集めます。

10月9日には真田幸村が九度山を脱出して大坂城を目指します。

10月11日に家康は駿府を出発。
10月23日に京につき、11月15日まで滞在しています。

茶々はこの間に侍女を駿府に使わしたりなどして和平交渉をしています。
しかし、家康はそれを時間稼ぎにしか使いませんでした。

豊臣方の牢人衆は不思議と実戦経験豊かな人間が揃っていました。
後藤又兵衛・明石全登・毛利勝永など一定の評価のある人物でした。

一方の徳川方には野戦に長けた武将が少数しかいませんでした。
外様では伊達政宗・藤堂高虎。
徳川直臣の往年の武将たちはもうこの世にいません。
本多忠勝・榊原康政・井伊直政・奥平信昌・酒井忠次などなど。
不思議なぐらい家康のみが長寿を全うしています。
また、家康の方針で豊臣ゆかりの武将たちは一戦から外されていました。
黒田長政・細川忠興・加藤嘉明などは実戦経験も豊かでした。
しかし家康からは軍とは外されていました。

当時関西の大名で実践力のある動員力を持っていた大名。
滋賀県彦根の井伊家(動員力6000あまり)。
当時、伊賀を拠点にしていた藤堂家(動員力6000あまり)。
和歌山城の浅野長晟(動員力6000あまり)。

家康本軍が5万程度いたとします。

一方の豊臣方は約10万の兵力がありました。

勝機があった可能性があります。

籠城をすると、戦いのフィールドが大坂城を中心になります。
それは同時に豊臣方の生存域の限界を示しています。

やはり出撃するべきだったでしょう。

 

この京への出撃には外交的要素もあります。

徳川方を分断する。
徳川方は江戸政権のため中心は東国です。

一方で西国には外様大名が多く配置されています。
中でも毛利や島津は色々と理由を付けて大坂の陣には消極的でした。

毛利家の隠居輝元はその姿勢を戦後も疑われています。
彼は一族の佐野道可や家臣の粟屋元種などを牢人として大坂城に入城させています。

島津家は豊臣の使者を丁重にもてなします。
そして、行軍を遅らせてついに大坂冬・夏の陣にも参陣していません。

両家とも減封による財政問題がありました。
しかし、そのうえで豊臣方から資金援助があれば可能性はあったでしょう。

そういう意味でも京都に出撃して、東西の徳川方の情報を遮断することは非常にメリットがあったでしょう。

京へ出撃していれば、良い戦ができたでしょう。

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2 講和をせずに籠城を続けるべきだった

豊臣方は籠城の用意は1.5年分ぐらいはあったでしょう。
一方の徳川方は兵糧の用意などがしっかりできていなかったといわれています。
家康が豊臣を滅ぼすことを非常に迷っていたことにも要因があるかと思います。
秀忠はまさか豊臣と戦うようになるとは思わなかったでしょう。
なので一時的ですが食料等、困ったという話が残っています。

これは後の話ですが、大阪夏の陣の際には、徳川の直属部隊は個々に非常に出費に困ったそうです。

その苦情が轟轟とあったそうです。
家康の側近の本多正純や阿茶局は取りなさざるを得なくなっています。
その結果、家康は非常に不機嫌になって自分ひとりで戦争に行くとまで極論します。

そして籠城戦は終始、豊臣方が有利に進めていました。
真田丸の戦いでもわかるように、豊臣方にはほとんどの損害がなく、徳川方は損害ばかりでした。

豊臣方は士気が上がり続け、徳川方は士気が落ち続けたでしょう。
そのまま和議の話にならなければ、幸村などが出陣して徳川方を翻弄したでしょう。

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3 総大将に相応の人物が必要だった

織田信長の弟に織田信包という人物がいました。
彼は信長の兄弟の中では優秀な方で、そして穏健派でした。
信長の兄弟はあまり信長政権の運営に見あう器量人がいませんでした。
唯一、信長の政権運営に協力できる器量のあったのが信包です。
茶々(淀君)の叔父でもあります。
織田家主義だった茶々のために織田有楽斎と共に大坂城に詰めていました。
有楽斎は裏切ります。
しかし、信包が生きていればまた違ったかもしれません。
彼は1614年7月21日に大坂城にて会議中に吐血し急死します。
当時は片桐且元の仕業であると噂が上ったそうです。

豊臣家は全体を統括する総大将が居ませんでした。

もし、信包が総大将として采配を振っていたとすれば、総大将不在で茶々や大蔵卿局・織田有楽斎・大野治長などのキャリア不足が総大将然とするよりも善戦したのではないでしょうか。

しかし、穏健派だった信包。
実際は裏切っていたかもしれません。
織田・豊臣・徳川の時代を見てきた人物です。
家康と戦うことの不利をよくわかっていたかもしれないですね。

 

 

いかがでしょうか。

この3つの点が大坂冬の陣で豊臣方が勝つめにやるべきことだったと思います。

実際には、大野治長が他の大名の参陣を信じていたり、茶々が勝手思案で使者を家康に送ったりと、かなりのロスがありました。

そしてつい先日、入城した牢人達。

彼らに大人数を付けて京都へ出撃させるというのは豊臣方の首脳陣には不安だったでしょう。
実際に、家康は牢人衆が裏切るという情報を無数に大坂城内に流していました。

そこから考えると、ほぼ勝つことは難しかったとは思います。
しかし当たり前ですが、敵味方とも結果はわからずに戦っています。

お互いの行動の途中にひずみができることは十分にありますね。

大坂の陣 冬の陣に勝つために豊臣方がやるべきだった3つのことを書きました。

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