奈良県桜井市三輪。
大神神社の門前として栄えた古き良きまちです。
今回は1933年生まれの女性のお話です。
太平洋戦争の記憶。戦時中の三輪の町の話。
大神神社の門前町三輪
古事記にこんな記載があります。
大国主命は知恵の神様少彦名命と全国を国づくりをしながら巡ります。
しかし、少彦名命は途中で亡くなり、大国主命は途方にくれます。
そんな時、大国主命のもとに海の向こうから光輝く神様が現れます。
その神様は汝は我を奈良の山に祀るようにといいます。
そして大国主命がお祀りした神社が大神神社だといわれています。
古事記の通りに考えると、日本最古の神社になります。
由緒正しい神社の町三輪。
この町にも例外なく、戦争の波は押し寄せてきました。
今回の主人公は三輪に生まれ育った道子さんです。
9歳で太平洋戦争が始まる
1942年、9歳の頃、太平洋戦争がはじまりました。
道子さんはまだまだ物心ついた頃のことで、戦争というものが良くわからなかったそうです。
そんな道子さんの周囲にも戦争の足音が聞こえてきます。
小学校の登下校は集団で行動します。
集合場所は近所の恵比須神社だったそうです。
子供も集団行動を行うことで組織訓練をさせていたのでしょうか。
戦前の折り目正しい習慣
当時、お琴のお稽古に通っていたそうです。
毎週、お琴の稽古日は学校から帰ってくると玄関先に稽古道具が並んでいたそうです。
毎回、お母さんが必ず、玄関先に並べて、忘れないようにしてくれていたそうです。
封建時代を経た日本人はこのように習慣を守ることを美徳としていました。
当時は発表会などを行う施設が今ほど充実していませんでした。
なので、発表会などは大神神社の大礼会館で行われていたそうです。
今、桜井の実家に戻ると、仏壇の横で母に聞かせたいとよく琴を弾いているそうです。
日の丸の旗を持って国鉄三輪駅へ
やがて、出征する人を送りに行くことが多くなります。
小学生だった道子さんは日の丸の旗を持って国鉄三輪駅に向かいます。
「万歳」を唱えて、送り出す。
そんなことが当たり前のようにある時代を過ごします。
まだ、しっかりその理由がわからなかったそうです。
この時期、三輪の町から何人が出征したのでしょうか。
今、三輪駅を見てもその面影はありません。
志願した兄に激怒した父の話
道子さんは6人兄弟の末っ子。
兄は4人いました。
3番目の兄が友人と語らって、兵隊の志願を出したそうです。
当時、映画は戦争映画、新聞・ラジオなども勇ましさにあふれていた時代です。
その志願の話を聞いた父が家の中で激怒していたのを今でも覚えているそうです。
国鉄三輪駅では日の丸の旗を持って万歳をしていた父が、息子の志願には激怒します。
70数年経った今も、その声が脳裏から離れないそうです。
道子さんの父は日露・第一次大戦に出征しています。
逝去後、身体の中から3つの弾痕が出てきたそうです。
ここに日本人の本音と建前が見て取れるように思いました。
志願した兄は通信関係の技術関係に進んだそうで、生きて生還できたそうです。
その他の兄たちも全員、戦争から生きて帰ってくることができました。
志願した兄は無事帰還しますが・・・
志願した兄だけ、帰ってくるという通知が来たにもかかわらず、時間通りに帰ってこなかったそうです。
なんでも、国鉄奈良駅界隈をブラブラしていたそうです。
知り合いが奈良で兄を発見して電話をかけてきてくれたそうです。
帰ってくるのが照れ臭かったのでしょうか。
戦争を一つの岐路にして多くの人の人生が変わっていきます。
戦前は、神道崇拝が全国民にいきわたっていました。
三輪の町も大神神社と共に繁盛したと思います。
そのうえで、生きて全員が生還できたことは非常に幸運だったと思います。
家族が箱に納められて帰ってくる姿を当時の人は当たり前のように見ています。
明るくなったと感じた戦後
戦後は、食糧難を迎えますが、道子さんは全体的に社会が明るくなったように思ったそうです。
戦争という国家総動員の出来事が終わった日本人はほっとしたのでしょう。
戦後明るくなったという証言は多くの人からお聞きしています。
新しい政策の普及
それと共に、米軍やGHQによる戦後政策が始まります。
戦前、学校は基本男子・女子は別になっていました。
道子さんは女学校に通っていました。
それが戦後、共学になっていきました。
道子さんのお母様は共学化にとても怒っていたそうです。
男子は男子、女子は女子の教育というのが戦前の概念だったようです。
戦後も色々と変遷があったのですね。
太平洋戦争の記憶。戦時中の三輪の町のお話でした。