長崎県島原市は島原半島の東側にあります。
島原半島は雲仙普賢岳や島原城・小浜温泉などのある観光地です。
また島原半島は湧水の多い地域でもあります。
そして、島原半島は歴史の教科書にも載っている島原の乱の地。
ご縁をいただいて島原半島を訪ねました。
そこで学んだ島原半島の歴史に地域活性化のヒントを探してみました。
島原半島は地理的に長崎市よりも熊本市が近い
島原半島は長崎県の東南に位置します。
しかし、例えば海を越えればすぐ熊本市です。
経済圏では長崎・熊本の圏域をまたがるような感じでしょうか。
島原半島の地形は雲仙岳と扇状地
島原半島は雲仙の山々が中央に聳え立ちます。
島原半島全体にその裾野が広がっています。
地図で見ると一目瞭然で、飛行機からみてもその広がりに美しさを感じます。
島原半島の歴史・・・地域外勢力と地域の関係と事情
島原半島では戦国期に九州制覇を目指した2名の戦国大名の戦いがありました。
肥前の熊・龍造寺隆信と南九州の雄島津氏の戦い。
また、歴史に残る島原の乱の地域でもあります。
島原の歴史はこの2つに絞って紹介します。
島原半島の歴史・・・地の利を考えた沖田畷の戦い
戦国時代、島原半島は有馬晴信が領有していました。
当時、肥前佐賀に龍造寺隆信という新興の戦国大名がいました。
彼は太宰府の武藤少弐の被官でしたが、少弐のお家騒動の煽りを受けます。
その中で苦労しながらも肥前1国と筑前・筑後方面に勢力を伸ばします。
有馬晴信は龍造寺に従属していましたが、その圧迫に限界を感じます。
そんな時、南九州を制圧する勢いのあった薩摩鹿児島の島津氏。
有馬晴信は島津の傘下に入り、龍造寺隆信を激怒させます。
その龍造寺隆信が島原に攻めてきたのが沖田畷の戦いです。
有馬晴信の軍勢は5000名前後に島津は1万名の応援。
一方の龍造寺軍はなんと5.8万名・・・。
普通では勝てませんが、有馬・島津の連合軍は大勝します。
島津の応援は天才的な作戦家島津家久が率いています。
島津家久は沖田畷という場所に着目します。
畷という字は田んぼのあぜ道を差します。
つまり、その周辺は田んぼか湿地帯ですね。
この地に誘い込みます。
島津家は得意芸の囮を使った釣りの伏せという罠で仕掛けます。
一方の竜造寺は大軍勢に驕り、ひたすら突撃を繰り返します。
龍造寺は本隊が前面に出過ぎたところを攻撃され、龍造寺隆信は戦死します。
その結果、有馬晴信は島原半島約12万石を手にしました。
島原半島の歴史・・・数十年の鬱憤が爆発した島原の乱
そんな有馬晴信ですが岡本大八事件という事件に連座し山梨で切腹します。
その後、少し時間を置き、大和五條の松倉重政が赴任します。
この松倉重政は大和五條では町の整備や政策に大きな功績のある人物です。
しかし、大和五條時代の2倍の領地を貰ったためか、少しずつおかしくなっていきます。
お城の建設や江戸城の改修工事など度重なる負担が領民を襲います。
分不相応の見栄を張り続けた松倉重政は逝去します。
その後、息子の勝家がさらに過酷な取り立てを行います。
ちょうどこの頃、島原には多くの浪人が住んでいました。
その多くは、関ケ原の戦いで改易になった小西行長の家来たち。
その小西行長は元切支丹だったこともあり、切支丹の家来が多かったそうです。
また、改易になった旧有馬晴信の家来たちもそこにはいました。
イエズス会軍人セスペデス
朝鮮出兵において小西行長の‘外交顧問’だったセスペデスという人物がいます。
彼はイエズス会の宣教師ですが、軍人上がりだったそうです。
セスペデスは後に細川ガラシャの洗礼を宣教師として担当します。
セスペデスは朝鮮の役で小西と行動を共にした宗氏・有馬氏・などとコンタクトがあったでしょう。
この人は直接島原の地と関係があったかはわかりません。
しかし、後の島原の乱などにこの人の影響があったでしょう。
内藤如庵という人物の謎
小西行長の親族で重臣に内藤如庵という人物がいました。
関ヶ原の後、加藤清正や有馬晴信の助けを受けた後に金沢の前田家の客将となりました。
有馬晴信は島原半島の人ですね。
この内藤如庵は京都府船井郡八木町の出身です。
私の直感ですが、この内藤如庵が島原半島に関係していたのではないかと推測します。
内藤如庵が有馬氏に匿われていた関係で小西の旧臣が多く島原に逃げてきたのでしょう。
内藤如庵はその後、高山右近と共にマニラに追放されます。
1632年の黒田騒動
筑前黒田藩ではお家騒動が起こります。
このお家騒動は江戸期の3大お家騒動に数えられています。
そして、このお家騒動に関係した人物のうちの何人かは島原の乱に一揆側として加わっています。
黒田藩主黒田長政の父黒田如水はキリシタンでした。
黒田藩内にも潜在的に切支丹の勢力があったのでしょうか。
騒動などの後はこういった組織内の古いグループは排除されがちです。
ここには直接的な島原の乱における暴発の原因がある説があります。
有馬・小西の旧臣が主導した組織的な島原の乱
そんなかつて集団で武装していた人が中心になって起こした島原の一揆。
中々盛んで、島原藩は鎮圧するどころか籠城し援軍を待つ有様・・・。
江戸幕府は討伐軍を編成し、島原に差し向けました。そ
れに対して一揆勢は原城跡を改修し、籠城を開始します。
天草一揆の犠牲者・・・三宅重利の謎
一方、天草で起きた一揆は唐津藩の飛地・天草富岡城を攻撃し落城させます。
富岡城の城主三宅重利は明智光秀の一族でした。
三宅重利は本能寺の変後、丹波国(京都府)で助けられ、匿われたのちに唐津藩に仕えました。
そして富岡城を預かっていました。
三宅重利は元切支丹、でこの時期棄教していました。
ここに切支丹系の一揆と棄教した武将が戦います。
上記に書いている通り、内藤如庵も三宅重利も丹波の出身です。
島原の歴史と丹波の歴史はつながりは何かあるのでしょう。
不思議なめぐりあわせを感じます。
一揆はその後、一度は幕府軍を押し返しますが、衆寡敵せず・・・。
一揆勢はポルトガルに助けを求めたようですが、助けは最後まで来ませんでした。
島原の乱後の徳川の政策が今に息づく
島原の乱後、荒廃した島原の地は徳川家家臣高力氏が復興を担当します。
この高力家は代々篤実で慈悲深い当主が続きました。
徳川家康の時代の当主高力清長は仏高力と呼ばれるほどの温和な人物でした。
その孫の高力忠房は徳川三代将軍家光の信頼の厚い人物でした。
家光はこの島原半島の復興を高力忠房に命じました。
高力忠房はそれに応じて、全国から多くの入植者を受け入れます。
また、農民の諸役や年貢を1年免じたことから、島原は見事に復興しました。
仏教の浸透で切支丹をの存在を忘れさせようとした江戸幕府
それに合わせて江戸幕府は本願寺に命じ、島原半島に寺院を建設させます。
教義の優しい浄土真宗は荒廃した島原の地域に良く浸透したようです。
その浄土真宗の寺院は今でも島原半島に大きな地域の輪を作っています。
島原と丹後の縁・・・丹後から赴任した深溝松平
高力氏の後、丹波福知山藩の深溝松平氏が赴任します。
深溝松平氏は徳川家康の古い親族で譜代大名です。
ここでもまた丹波の縁が島原半島にありました。
江戸幕府の島原半島への政策。
それは徳川の息のかかった家による再興でした。
ここでも島原半島は丹後との縁があるのですね。
島原半島は裾野を活かしたビニール栽培の農業王国
島原半島にとって大事な歴史として雲仙普賢岳の噴火の歴史があります。
私も一度だけ小学生の頃に噴火中の普賢岳を見に行ったことがありました。
島原城には自衛隊が拠点を置いていました。
雲仙普賢岳の噴火は、地域に大きなダメージを与えました。
普賢岳の噴煙や火砕流に呑み込まれてしまった集落もあったそうです。
そんな島原半島はその後、復興に向かいます。
ここでは、国の復興の予算がかなり入っているみたいでした。
特に島原の農業は今、全国のスーパーで野菜を並べるほどにまで成長しています。
島原半島にはビニールハウスのある風景が多いです。
長崎産の南国野菜の多くは島原で作られているようですね。
活火山を活かした温泉と地獄と島原城などの観光資源
島原半島にとって雲仙は噴火だけでなく多くの恵みももたらします。
その第一がまずは温泉ですね。
小浜温泉など著名な温泉が今でも存在します。
私は地元の方おすすめの温泉に連れて行っていただきました。
こちらの温泉はかなり素晴らしい湯治場的温泉でした。
温泉があれば地獄もあります。
島原には明治期に弾圧されたキリシタンの歴史もあるようです。
一方、明治の廃仏毀釈の歴史も垣間見えました。
島原城と武家屋敷と鯉の泳ぐ溝
島原には観光資源として武士の歴史が残っています。
島原城は戦いの歴史・その後の島原の武家社会の名残として武家屋敷が残っています。
武家屋敷の間を流れる溝に鯉がいるのは湧水の多い島原ならではの光景ですね。
小さい頃、たしかこの溝に確か入ってしまった気がします・・・。
奈良から小豆島へ伝わった製麺技術
そんな島原は奈良とも縁があります。
香川県小豆島の人が江戸初期、お伊勢参りの帰りに三輪に立ち寄ったそうです。
そして製麺技術を学び、小豆島に持ち帰ります。
その後、上記の高力氏の入植誘致に応じ、島原に移り住んで素麺を作りました。
これが島原素麺の始まりのようです。
奈良と島原は松倉重政だけでなく素麺での縁もあったといえるでしょう。
島原で学んだ地域活性化のヒント
先日、島原を訪れ、様々なことを学びました。
特に個人的には湧水地という可能性をとても感じました。
その一方で、噴火と隣り合わせという事情も抱えます。
福岡県久留米市でも同じことがあります。
筑後川の洪水を意識した地域では備えへの意識が高いそうです。
島原も火山という緊張感が地域の防災意識には現れているでしょう。
事情を抱えながらも、その特徴を活かして生きる地域の姿を見ることができました。
また、毎週福岡から温泉に通っている人もいるそうです。
温泉通にとってはかなり評判の良い島原半島の温泉。
まだまだ、可能性がある気がしました。
最後があまりまとまらないのはまだ地域を完全に視察できていないからだと思います。
また訪ねたいと思います。
島原良いところでした。
島原半島の歴史・・島原の乱の背景と戦後の徳川の復興政策について紹介しました。
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