昭和50年代までは北九州・熊本についで九州では人口3位だった福岡市。
しかし、今、京都や神戸を抜いて西日本でいえば最も人口も増えている町ですね。
福岡市が九州最大の都市になった理由を考えてみました。
明治政府が最重要した九州の都市は熊本
明治政府は熊本を最重要視します。
明治政府は政府軍の出先期間をすべて熊本に集中させます。
特に政府軍である鎮台を熊本に置きます。
そこには徳川家から引き継いだ対島津・薩摩政策がありました。
明治政府の懸案はやはり薩摩だった
明治初年、薩摩・大隅は実は明治政府から半独立体制でした。
私学校と呼ばれる組織が県庁等を動かしていました。
中央には一切納税などをしない形でした。
そのため全国で唯一、単独の武力を持っていました。
それが崩壊したのが西南戦争ですね。
熊本は九州随一の軍都としてその後も発展をつづけました。
北九州市の大成長時代
日清戦争に勝利した日本政府はその賠償金で国営八幡製鉄所を立ち上げます。
その後も朝鮮併合・満州建国等に日本の大陸への野心は広がっていきます。
その際に北九州は背後にある動力の大生産地筑豊と連携した工業都市に成長します。
当時から福岡の県庁は福岡市にありました。
それを追い越せ追い抜けで現北九州市地域は国家的事業の中で九州随一の大都市になりました。
この時期は大牟田や筑豊も炭鉱で栄え発展を続けていました。
戦後大都市へと変貌した福岡市
ところが、戦後、福岡市が熊本市・現北九州市地域を抜きます。
熊本のように軍都でもなく、北九州のような工業都市でもない。
なぜ福岡市が一番になったのか不思議に思う人もいるでしょう。
ここに一つの考え方を紹介します。
単独で県となった熊本市・合併で県となった福岡県
まずは熊本県。江戸期までは肥後国でした。
肥後が熊本に変わっても管轄範囲は変わりません。
一方の福岡は、筑前国・筑後国・豊前約3分の2で1県を構成します。
この場合、福岡県庁所在地つまり福岡市に税金が集まります。
明治の中央集権政策は地方にも集権化が押し寄せる
明治政府以降、日本は中央集権化を進めます。
福岡県では福岡市が集権化の場所になります。
すると、筑前筑後豊前の3か国の租税が福岡に集まるんですね。
ちなみに江戸期の石高は推定で筑前56万石・筑後37万石・豊前31万石(福岡分は18万石程度か)
これを合わせると、石高の指数でいえば111万石が福岡県になります。
推定56万石の熊本県とは2倍の収税力の差が県庁所在地には出ることになります。
現在の人口は熊本市74万人、熊本県約182万人(2018年現在)。
現在の人口は福岡市164万人、福岡県約504万人(2018年現在)。
石高は江戸期の地域の生産力の指数と言っていいでしょう。
福岡が集権化することでお金が集まり仕事が増え、人口が増加した理由が見えてくるように思います。
福岡市は今も人口が増え続けています。
それは集権化がまだ未完成だということでしょう。
現代人が思っている以上に税金は地域に大きく影響を与えていると私は思います。
久留米市民や大牟田市民が福岡市で働く
周辺都市がベットタウンになっていったのも福岡市の成長が原因でしょうか。
春日市・大野城市などの福岡市に隣接している町は人口が増加しています。
福岡県内でも主要都市の人口は福岡市を除けば大して増加していません。
大牟田市は基幹産業の衰退もありますが、久留米市は商業力を福岡市に奪われた感があります。
そして、今は多くの人が西鉄やJRを利用して福岡市で勤務しています。
今後も福岡の人口は伸び続けていくでしょう。
福岡市が九州最大の都市になった理由を考えてみました。