せごどんにも登場した公家界の策士岩倉具視。
当初公武合体派でありながら後に倒幕派に思想を変えました。
せごどんの解説・・岩倉具視について紹介します。
せごどんの解説・・下級公家の出身だった岩倉具視
岩倉具視はあまり裕福ではない公家の家に生まれます。
そのため、岩倉具視はお金を稼ぐために屋敷内で博打をさせて利益を稼ぎます。
江戸期、公家は幕府に予算を握られていました。
公家のほとんどが倒幕に参加しなかったのにも理由があります。
幕末の段階で倒幕に参加するのは主に諸藩の扶持を受けた公家でした。
せごどんの解説・・岩倉具視と公武合体
幕末初期。
公武合体という言葉が登場します。
公武合体とは朝廷と江戸幕府が力を合わせて政治を行うことを言います。
幕府の権力が落ちた中、その挽回に幕府は朝廷を引き込もうとします。
この際に岩倉具視は活躍したと言われています。
そして、それは同時に人の恨みも買いました。
特に、尊王攘夷という思想を持った浪人たちからその動きを恨まれます。
神聖なる朝廷を幕府が利用することが尊王の思想に反するのですね。
岩倉具視は徹底的に狙われ、京から姿を消しました。
尊王攘夷とは当初水戸藩の看板政策でした。
しかし、水戸藩は安政の大獄で地位を落とします。
変わって出てきたのは長州藩でした。
長州藩は侮幕行動を徹底することで幕府権威の失墜を狙います。
公武合体の政策を邪魔したのは長州藩でした。
せごどんの解説・・・大久保利通と岩倉具視の出会い
京北部岩倉の地に蟄居する岩倉具視。
そこに大久保利通は訪ねます。
希代の政治家大久保利通。
彼は倒幕という大事業を公家界から動かすべく行動します。
そこで目を付けたのが公武合体を推進した岩倉具視でした。
岩倉具視と手を結んだ大久保利通。
薩摩藩は倒幕への舵を大きく切っていきます。
せごどんの解説・・岩倉具視と大久保利通の倒幕
明治もかなり経った頃。
岩倉具視はこんなことを言っています。
「幕末のギリギリの時期、自分は大久保と様々なことをした。それは人には言うことのできないことが多い」。
時代を変えるために様々なことを行ったのでしょう。
せごどんの今後の流れに注目しましょう。
せごどんの解説・・岩倉具視について紹介しました。