2020年の大河ドラマ麒麟がくるは明智光秀を主人公とした大河ドラマです。
一般には謀反人という印象の明智光秀。
しかし、彼は戦国時代には珍しく教養のある人物でした。
その明智光秀と共に時代の文化を担った人物。
それが細川幽斎です。
細川幽歳とはどんな人物だったのでしょうか。
麒麟がくるに登場する細川幽斎とまな板と鯛の逸話を紹介します。
細川幽斎は九耀紋の家紋を持つ細川家の傍流
細川幽斎は三淵晴員の次男として生まれます。
そして三淵晴員の兄で細川和泉上半国守護家に養子に行きます。
細川家は元々足利将軍家の一族で、愛知県岡崎市細川の出身です。
その細川家は一時期は飛ぶ鳥を落とす勢いでした。
しかし、大きくなった一族は内部分裂するのが日本の風景です。
いくつかに分かれた細川家の後継者として幽斎は生きていきます。
幽斎が継いだ細川家の家紋は九耀紋です。
実は私の実家は蓮根を使った菓子を作っています。
その蓮根の形が細川家の家紋である九耀紋に似ているということで幽斎のご子孫にお菓子を使っていただいています。
細川幽斎は足利将軍家の再興の途中で明智光秀に出会う
細川幽斎は細川家の当主としてそして足利家に出仕します。
応仁の乱後で疲弊していた足利家の当主は13代将軍の義輝です。
義輝は近畿圏内でしか通用しなくなった足利家の再興を果たそうとします。
義輝は上杉謙信や武田信玄を上洛させることで近畿の敵対勢力を討伐しようとしていました。
しかし、そんな義輝を徳島の大名で近畿の支配者であった三好家の武将たちが殺害します。
細川幽斎は足利家の血を絶やさないために動きます。
義輝の弟で奈良興福寺一乗院門跡だった覚慶を近畿の武将たちと救出します。
覚慶は還俗して、足利義昭(秋)と名乗り、近江八島の地にて全国の諸勢力に助力を求めます。
この頃に明智光秀に出会ったといわれています。※諸説あり
明智光秀は当時、福井県の朝倉家の食客のような立場でした。
そして明智光秀の手引きで足利義昭と細川幽斎達は朝倉家に寄寓します。
そして、明智光秀は朝倉家を離れ、日の出の勢いを見せ始めた織田信長に接近します。
織田信長に足利義昭を紹介したのは明智光秀だと言われています。
足利義昭の側近として活動していた細川幽斎に外交能力の高い明智光秀が加わります。
二人は足利家の再興のために共に働きました。
そして足利将軍家は再興されましたが、義昭は信長と対立して滅亡します。
その後、幽斎は織田家随一の出頭人明智光秀の与力として活躍します。
明智光秀は織田家譜代筆頭の佐久間信盛失脚後、近畿の統括責任者になります。
近畿の武将たちはほとんどが明智光秀の傘下に入りました。
高山右近・筒井順慶などと共に細川幽斎もその傘下に入ります。
また、明智光秀の娘、玉通称ガラシャ夫人を息子の細川忠興に迎えました。
細川幽斎と本能寺の変
やがて明智光秀は本能寺の変を起こします。
この日、近畿の主だった武将は京に集められていました。
明智光秀は本拠地の丹波亀山城から京へ進軍します。
本能寺の変は事前に盟友である細川幽斎には知らされていませんでした。
幽斎はその事実に、髪を落として出家したといわれています。
細川幽斎が本能寺の変で髪を落とした理由
そんな細川幽斎は癇癪持ちだったといわれています。
歴史上、細川幽斎は海音寺潮五郎や司馬遼太郎には良い評価をされていません。
ご都合主義者とか日和見主義者などといわれています。
その理由は、本能寺の変で盟友明智光秀に加担しなかったからだと言われています。
しかし、私はそうは思っていません。
幽斎が髪を落としたのは、事前に聞かされていない凶行に癇癪を起したのではないか。
盟友だった明智光秀は幽斎にとってもかけがえのない仲間だったでしょう。
しかし、その仲間が事前に相談なく事を起こしました。
共に苦労してきた男の単独の反抗に癇癪を起したのではないでしょうか。
細川幽斎の逸話
そんな細川幽斎の癇癪持ちを紹介する逸話があります。
ある時、幽斎が茶事を行う準備をしていた時の話です。
幽斎は包丁さばきが得意だったといわれています。
その日は鯛を裁く予定で、鯛に包丁を入れました。
すると、誰のいたずらか、鯛の中に鉄の櫛が刺さっていたそうです。
それに癇癪を起した幽斎は何と鉄櫛ごと鯛をぶった切ったそうです。
さらに細川幽斎の逸話を一つ。
関ヶ原の合戦の際の話です。
幽斎は500の手勢と共に、宮津の田辺城に籠城します。
そこに敵が1.5万人の兵隊で押し寄せてきます。
幽斎はここで30倍の相手を迎えて一歩も引かずに城を守り切りました。
尋常ではない話ですね。
麒麟がくるではどんな細川幽斎が登場するのか見ものです。
もうすぐ始まります。
麒麟がくるに登場する細川幽斎の逸話などを紹介しました。