奈良市長仲川げん氏の12年を語る・ブログを書き続ける理由
奈良市長仲川げん氏の12年を語る。
第16回目に来ました。
ここで少し自分の思いを書きたいと思います。
知り合いが市長になる
大して親しくもない、しかし関連性のある仕事をしている人が市長になる。
それは、ちょっと普通では味わえない光景です。
そして当選した途端に集中砲火を浴び続ける。
そこに義憤のようなものを感じた人は多かったのではないでしょうか。
私はその1人でした。
若者の代表としての市長
少子高齢化で若者が減少する一途の地方都市。
また、奈良や京都などの古い町は昔から高齢者の町です。
若い人がやってみたが駄目だったという印象が地域に残るのは良くありません。
当時、若手起業家として注目されていた自分もそれを支える必要がある。
そんなことを思っていました。
自分が何をすれば支えることができるのか
交流していると、フィーリングが合うこともありました。
仲川げん氏は直観力と行動力が最大の武器です。
課題は、既存は悪という思い込み。
また、奈良市長であるにも関わらず歴史や伝統への理解不足。
歴史が好きで和菓子屋という伝統社会で育った自分。
その自分が支えることができるのではないかと思いました。
若い市長の限界はキャリアだった
しかし、若き市長を支えることは5年目ぐらいから限界を感じるようになりました。
目の前で言っていることとやっていることが違います。
また人望が全くなく、人を紹介しても半分も味方にできません。
猟官運動や政治力を使いたい人間しか続きません。
それは自ら苦労して作りあげてきた実績がないからだと思います。
お世話になったらお礼を言う、迷惑をかければ謝る。
そんなことが満足にできない市長。
仁なき将に未来無し。この言葉通りでした。
私が離れようと思った理由
私が仲川げん氏から離れようと思った事が3つありました。
1つは火葬場の件。
当時、毎月1度、私の事務所の2階で市長を囲んだ勉強会を行っていました。
メンバーは10人前後。
その場で市長は火葬場の事を熱く語っていました。
「候補地には日参してる。一部反対派の議員に扇動された住民だけが反対してる」
特に疑うこともなく、聞いていました。
しかし、それが虚実だったことが2016年1月にわかりました。
当時、私の住んでる場所の自治会に火葬場の担当をしている奈良市職員がいました。
「市長が2年も候補地に足を運んでおらず、話が進まなくて困っている」と。
私は、仲川げん奈良市長の気の置けない支援者の1人のつもりでした。
しかし、そういう身近な人にも平気で嘘をつくことに愕然としました。
もう一つは、姑息な実績作りです。
私は奈良の観光政策として奈良で大茶会をすることを提案しました。
詳細は後々書きますが、これが大成功します。
すると、市長は自分が考えて実行したと言い始めます。
しかし、茶道の事も歴史の事も全く知りません。
しかし職員には市長が考えて実行したと言えと指示していたらしいです。
呆れました。
もう一つはここでは書かないことにします。
姑息な手段で人を貶める
私は市長と携帯の番号もメールアドレスも交換しています。
2016年3月に市長には今後は関わらない旨伝え、謝罪メールが来ました。
その後、私の事務所に突然来て、私に会いたいと言ってきます。
事前にアポもなく着て、何を話すのでしょうか。
また、第三者を使って会う機会を作ろうとします。
姑息だと思いませんか?
連絡先は知っているので直接連絡してくればいいと思います。
それをせずに、いかにも私が逃げているという印象を作らせようとします。
今、ブログを書く理由
色んなことがありました。
そして今、このブログを書き続ける理由があります。
市長に協力して痛い目に遭って離れる。
それを経験した人は多いでしょう。
私は仲川げん氏の12年の中で6年は手を携え、6年は距離をとりました。
この6年、思い出して嫌な気持ちになる事が非常に多かったです。
しかし、過去に捉われるのは良くないと思い始めました。
過去を明らかにして未来を考える
私の好きな言葉があります。
彰往考来
過去を明らかにして未来を考えるという意味です。
私はブログにかけるだけ書いて、それで忘れようと思います。
そのために書き続けています。
ブログを書き終えれば、また自分もリスタート。
奈良市長仲川げん氏の12年を語る。ブログを書き続ける理由を書きました。
これから後半戦に入ります。