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甲斐を語る④ 甲斐と武田氏と渡来系の話

山梨

甲斐国と言えば、やはり武田氏の歴史の主役と言えるでしょう。
甲斐を語る➂では、開削の伝承を書きました。
甲斐を語る➃では、武田氏に至るまでの歴史を追ってみようと思います。

古代朝廷が直面した外交課題

大化の改新以降、中央集権体制を推進する朝廷。
中国大陸に使者を送り、朝鮮半島とも交流を進めます。
朝鮮半島には当時、加羅・任那・百済という親日的な国家がありました。
しかし、新羅国が台頭するにあたり、日本の朝鮮半島への影響力が低下します。
やがて、朝鮮半島統一を目指す、新羅国と唐の連合軍は親日的な三国を圧迫します。
そして660年に百済は滅亡します。
663年の白村江の戦いにて唐新羅連合軍に日本は敗れました。

このような東アジアの外交・戦争の流れの中で、日本には多くの渡来人が渡ってきます。
古くは応神天皇の時代にもわたってきた伝承があります。

白村江の戦いの前後に時の天皇、天智天皇が近江国に多くの渡来人を受け入れています。
ここからは想像ですが、その渡来系の人の多くは東日本に特に多く入植したでしょう。
そして、甲斐国(このころはまだ甲斐国は設置されていません)にも入植があったと思われます。

地名から見る甲斐国

山梨に行って気になった地名は旧巨摩郡です。
巨摩とは、多くは高麗からきた地名だといわれています。
高麗から来ている渡来系の地名は実はかなり多く、小松→高麗津という話もあります。
石川県小松市の小松という地名は朝鮮半島との交易をおこなった場所だったのでしょうか。

そこから考えると巨摩という地名もまた、高麗からの入植者の歴史があるかもしれません。
旧巨摩郡は、山梨県西部の広大な範囲です。

巨摩と駒

 

一方で、甲斐国の巨摩郡では上古より御牧が営まれています。
御牧とは、馬を育てる牧場です。
八ヶ岳山麓は、牧草が豊かな高原地域で馬の生育に適していたのでしょう。
巨摩郡の名前はこちらから来ているかもしれません。

ちなみに、奈良時代の国司には馬史氏という名前が見えます。
渡来系だったようですが、馬に関係していたと推測されます。

戦国時代、鉄砲が伝来するまで戦争で最も強い部隊は騎馬でした。
武田信玄の騎馬隊が強かったのは著名ですね。

上記の内容から考えると、渡来系の馬史氏は御牧と関係していた可能性があります。

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武田氏の祖、新羅三郎義光

武田氏の祖は、源義光です。
源家と甲斐の関係は、河内源氏の祖、源頼信が3年程、甲斐守に任官していたことがあります。
これは朝廷の東国の兵乱を鎮めるための布石だったようです。
1029年から1032年の間に任官しています。
この頃に、既に源氏は東国に勢力を作り始めています。
そして、1087年、後三年の役の戦功として源義光が甲斐守に任官します。

新羅三郎義光のこの新羅ですが、滋賀県大津市の三井寺の新羅明神に由来しています。
新羅明神を検索していただければわかりますが、日本の仏様とは少し違います。
とてもリアルな雰囲気です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85%E6%98%8E%E7%A5%9E

新羅とは日本と敵対した国の名称ですが、実は朝廷にも百済派・新羅派がいたといわれています。
ここで新羅三郎を名乗ったことは新羅明神のご加護を得るためです。
また、新羅明神の前で元服式を上げたという伝承があります。

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源氏から武田氏に名前が変わった理由

源氏は、その当初から、嫡男以外は源姓を名乗りません。
赴任地の地名を苗字とするのが通例です。

源義光の三男義清は、常陸国武田郷を所有し、武田冠者と呼ばれます。
のちに息子の清光と共に、常陸国内で抗争を興した責任で甲斐に流されます。
ここから武田氏を軸にした南部・小笠原・三好といった甲斐源氏が広がっていきます。

西暦1100年前後に入植した武田氏は武田勝頼が滅ぶまで480年甲斐の国に住します。
古代から、武田氏の話まで大まかに追いかけてみました。
これから、武田氏の話を書いていこうと思います。

甲斐を語る➃甲斐国と武田氏と渡来系の話でした。

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