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桶狭間の戦いは織田信長渾身の電撃作戦だった

地域 愛知
桶狭間の戦いは織田信長渾身の電撃作戦だった

織田信長生涯で最も記憶に残ったであろう日の一つ桶狭間の戦い。
桶狭間の戦いは1560年6月12日に起こった戦いです。
桶狭間の戦いの勝因を現地を調べ、考えました。
桶狭間の戦いは織田信長渾身の電撃作戦でした。

桶狭間の戦いは今川氏と織田氏の東海ダービー

信長誕生時、東海地方の雄は駿河国(現静岡県東部)を本拠に持つ今川氏でした。
今川氏が室町幕府足利氏の一門であり名門中の名門でした。
織田家は足利氏一門の斯波氏の三奉行の一家です。
斯波氏の衰退の中、信長の生まれた織田弾正忠家が台頭します。
信長の父信秀は今川氏の尾張の所領を奪い取ります。
ここが今川氏と織田氏の戦いの始まりです。
そして駿河・遠江・三河と東から西へと勢力拡大した今川は、尾張の地を巡って織田と争います。
当初、織田氏が優勢でしたが、信長の父信秀が死去し信長が後継者争いに忙殺されます。
その隙に、今川は尾張に再浸食し始めます。

桶狭間の戦いで織田信長は四面楚歌

桶狭間の戦い発生時の織田信長は実は四面楚歌でした。
信長にとって良き義父の斎藤道三は息子の義龍に殺されたことで、信長と敵対します。
斎藤氏の本拠地、稲葉山城(今の岐阜市)は信長の本拠地清洲城からたったの28kmです。
普通人は1分80m歩くので、350分、5.8時間で到達します。
北には斎藤氏、西には伊勢に北畠氏(及び関係諸氏)が控え、尾張国内にも敵が充満しています。
織田信長は桶狭間の戦いの時、まさに四面楚歌でした。

地理的事情

織田信長の本拠地尾張と今川氏の三河国(愛知県西部)は丘陵地帯が国境に控えます。
これを鳴海(なるみ)丘陵地帯と言います。
織田信長が今川氏と戦う場合にはこの濃尾平野の西南の丘陵地が最後の傾斜物になります。
信長の本拠地清洲城からはたったの23kmです。

ここで防がなければ、平野部に進出されると兵力差が物を言う為、防ぐすべがありません。

織田氏と今川氏、桶狭間の戦い時の戦力比較

桶狭間の戦いの頃の織田氏と今川氏の戦力を比較します。

この当時、領地1万石に付き、200名から250名が動員される計算があります。
織田信長の所領は尾張約57万石のうち、おおよそ25万石程度。
兵力は5000名~6500名程度。

今川氏は駿河約15万石・遠江約26万石・三河約32万石、合計約73万石です。
兵力は14600~18500名程度。

信長は四面楚歌なので、領内の守備に兵力をほぼ半分割く必要があります。
今川氏は甲斐の武田、相模の北条と同盟関係があり、武田の援軍も参加していました。

つまりは、信長の決戦兵力は2500名前後、今川は2万名程度いました。

信長が有利な点

そんな信長ですが有利な点がいくつかありました。
➀今川氏は駿河の譜代衆と遠江・三河の外様衆に分かれています。
厳密に統率が難しいと言えるでしょう。
➁兵隊は各家来がそれぞれ持っている領地から集められます。
領地ごとにばらばらに兵隊のグループがあり、統制は容易ではありませんでした。
➂今川氏は遠く駿河から来ており、兵站や長距離の日程で、疲労や長期戦は限界があります。
そして、敵地は道などの地理的な情報に限界があります。

上記のおさらいをすると、信長は四面楚歌で長時間外征はできない。
濃尾平野の途中の鳴海丘陵地で戦わなければならない。

この条件を解決するために信長が天に与えられていた物があります。
それが馬でした。

戦いの推移

信長は鳴海丘陵の今川方の城鳴海城・大高城・沓掛城の周辺に砦を築いて今川方に圧力を掛けます。
今川義元はその報告を聞くや田植えの終わった1560年6月5日、大動員令を掛け、駿河を出立しました。
6月11日には沓掛城に入り、この鳴海丘陵を舞台にした戦いが始まります。
6月12日3時、今川軍が小田方の砦に攻撃を掛けたと聞いた信長は飛び上がり4時に出陣します。
そして、運命の1日がやってきました。

6月12日の桶狭間の戦い

信長は4時に清須を出陣し、8時に熱田神宮に到着します。
熱田までは約15km 実に4時間かけて動いています。
これは徒歩の兵隊の集結を考えると共に、信長は空を見ていたと私は思います。
この頃、熱田神宮の南側は海で、雲の流れを見ることができます。
西南から東北に流れる雲。
信長はここで雲の流れを見ながら、敵陣に雨が降るタイミングを見計らっていたでしょう。

10時に善照寺砦に3000近い兵力を結集させます。
そして13時頃、大雨が今川の本陣があった田楽狭間に降り注ぎます。

それと同時に織田の兵力が本陣に突撃しました。
見事に今川義元の首を取り、それと同時に清須城に速攻で帰城しました。

解説

信長はこの間、常に馬に乗って移動しています。
幼少期から馬が好きだった信長は、馬に乗って自領内を徘徊したでしょう。
そしてこの時代、雨が降ると雨宿りする場所に困ります。
信長は幼少期から雨について良く知っていたと想定できます。
そして敵に囲まれていた信長は、短期決戦を必要としていました。
今でいえば、タッチアンドゴーが必要でした。

信長は馬という機動力を最大限に生かし、この戦いを乗り切りました。
実際に、信長の側近が書いた信長の記録書「信長公記」にも信長の馬に乗っている姿が印象的に何度も記されています。

信長は人生最大のピンチにおいて最大限に集中力を上げて戦いを遂行します。
そして見事に勝利しました。
これで、うつけものと呼ばれた信長は、東海の出来星と呼ばれるようになりました。

いかがでしたでしょうか。
かなり長くなってしまいましたが、桶狭間の戦いは信長の知能の限りを尽くした電撃作戦でした。

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