備前中納言宇喜多秀家。
父の宇喜多直家が謀略にまみれながら一世代で築いた所領を受け継ぎます。
時代に流されながらも律儀に生きた宇喜多秀家とその妻豪姫。
宇喜多秀家と豪姫の関ケ原・大坂の陣の逸話などを紹介します。
豊臣秀吉の猶子になった宇喜多秀家の逸話
宇喜多秀家は豊臣秀吉の養子となり後に猶子となります。
猶子とは猶(なお)子供のごとしという意味です。
秀吉の養子はたくさんいました。
信長の四男の秀勝・寧々の甥の小早川秀秋・徳川家康の次男の結城秀康。
しかし秀家がもっとも幸せだったのではないかと思います。
一つには彼は父が残した莫大な領地を相続しています。
他の養子と違って、外の家に出されなくてもよかったんですね。
そして、ここにまた秀吉らしいエピソードがあります。
秀吉は秀家の母で未亡人福を側室のようにしてしまいます。
秀吉が秀家を寵愛した理由がそこにもありました。
宇喜多秀家の妻は前田利家の娘豪姫
宇喜多秀家は1582年の本能寺の変時、わずか9歳でした。
そして秀吉の天下統一に合わせて備前57万石の大大名になりました。
57万石といえば、当時は全国6位の大身です。
宇喜多秀家の妻は前田利家の娘でかの有名な豪姫です。
宇喜多秀家は豪姫を娶ることで前田利家とも姻戚になりました。
官位も中納言となり、名実ともに秀吉政権の中枢となります。
宇喜多秀家の父宇喜多直家は絶世のイケメンだった
宇喜多秀家の父、宇喜多直家はため息が出るほどのイケメンだったそうです。
宇喜多直家はそのイケメンぶりから並み居る武将から寵愛されます。
戦国時代は男と男が契りを交わす衆道が流行ります。
ちなみに織田信長もこの衆道を好みます。
織田信長の寵愛を一身に受けたのは実は前田利家です。
宇喜多秀家の父直家はそのイケメンな風貌を活かして人に取り入り、相手を殺して家や所領を乗っ取ります。
凄まじい男です。
そして現在の岡山県の原型と同じぐらいの領地を手に入れました。
宇喜多秀家は絶世のイケメンだった逸話
宇喜多秀家と豪姫にこんな逸話があります。
絶世のイケメンだった宇喜多直家の息子の宇喜多秀家。
宇喜多秀家の母、於福も絶世の美女だったといわれています。
当然のように宇喜多秀家も絶世のイケメンだったそうです。
一方の宇喜多秀家の妻豪姫。
こちらも織田信長が愛したイケメン前田利家の娘です。
当然のように豪姫も美人だったそうです。
宇喜多秀家と豪姫はまさに豊臣政権のサラブレット同士でした。
豪姫は宇喜多秀家に嫁ぐ前に、まず豊臣秀吉の養女になっています。
豊臣秀吉は豪姫には三国一の男を探すと言っていたそうです。
そしてそのお相手がイケメン宇喜多秀家だったんですね。
宇喜多秀家と豪姫の結婚に関する逸話でした。
岡山城を築城した宇喜多秀家
宇喜多秀家は岡山城を築城しています。
大坂城を参考に岡山城を築城したと言われています。
豊臣期の大阪城天守閣は黒と金のデザインですね。
岡山城は黒基調に漆喰で白を取り入れています。
秀家はお坊ちゃまらしく、おしゃれだったのでしょう。
宇喜多秀家の逸話・・性格は純粋で正直者だった逸話
当時、京都大阪に近い土地が重要視された時代です。
そんな時代に大阪から目と鼻の先にある岡山にいます。
秀吉の彼への信頼はここにも表れています。
宇喜多秀家は親の直家とは性格が違っていたそうです。
宇喜多秀家は正直者であり、純粋な性格だったと言われています。
そんな宇喜多秀家の逸話が残っています。
豊臣秀吉が最後を迎えた際、秀吉は全諸大名から誓詞を取ります。
それに宇喜多秀家だけは納得がいかなかったそうでぷくっと膨れていたそうです。
幼少期から豊臣家と共に生きてきたのに誓詞を書かされる・・・。
それをみて、豊臣秀吉はくすっと笑ったそうです。
宇喜多秀家は正直者で純粋な性格だから今後も大丈夫と豊臣秀吉は思ったようです。
宇喜多秀家の性格は実父に似ず、純粋で正直者だったようですね。
宇喜多秀家の逸話・・宇喜多秀家と家臣の係争の逸話
豊臣秀吉の死は宇喜多秀家にとても重くのしかかります。
豊臣秀吉は事あるごとに宇喜多家の家臣を手懐けることを忘れませんでした。
しかし、豊臣秀吉が逝去すると、宇喜多家臣団は公然と徒党を組んで争いを始めます。
宇喜多秀家の家臣は真っ二つに割れています。
岡山県はもともと日蓮宗が多い地域なんですね。
一方で、豪姫に付き従ってきた中村刑部はキリシタンでした。
その影響か宇喜多秀家の家臣にはキリシタンが増えます。
宇喜多秀家の家臣達はキリシタンと日蓮宗の宗教間対立が生まれていました。
そしてその結果、実父宇喜多直家時代の重臣を始め家臣の多くが宇喜多家を去ります。
宇喜多家にとっては非常な戦力ダウンだったでしょう。
裏で糸を引いていたのは豊臣家の弱体化を図る徳川家康でした。
宇喜多秀家の逸話・・・関ケ原の逸話
宇喜多秀家はやはり豊臣政権下が絶対でした。
そして毛利輝元と共に石田三成の挙兵に応じました。
そして関ヶ原を迎えます。
26歳。
宇喜多勢は西軍最大の15700。
宮本武蔵もそこにはいたといわれています。
宇喜多秀家は西軍の副将として関ケ原で獅子奮迅の働きをします。
宇喜多の正面は猛将福島正則でした。
その福島正則が何度も押されるほどの戦いぶりでした。
午前中はほぼ西軍の優勢でした。
しかし、同じ養子の小早川秀秋の裏切りに合います。
そして西軍は総崩れを起こしました。
宇喜多秀家は激怒します。
宇喜多秀家の逸話・・・関ケ原の後の逃避行と八丈島の島流し
その後、関ヶ原を落ち延びました。
彼は鹿児島の島津に匿われていました。
しかし、見つからない秀家への詮議が厳しくなる中で家康に出頭します。
家康は宇喜多秀家に大きな政治性などは感じなかったようです。
彼は久能山に幽閉後に八丈島に流されます。
その後、84歳まで生きました。
関ヶ原に出陣した誰よりも長生きします。
宇喜多秀家の八丈島の生活
宇喜多秀家の八丈島での生活は妻豪姫の実家の前田家の援助がありました。
八丈島を福島正則の藩の酒を載せた船が通ったという逸話があります。
秀家はその船を呼び止め、自分のかつてのことを話した後に、お酒を分けてもらったそうです。
また、秀吉死後に秀家の元から独立していった家臣達からの援助もあったそうです。
宇喜多秀家が大坂の陣に入城していれば・・・
宇喜多秀家は大坂の陣当時、牢人の中ではもっとも大物でした。
歴史にもしはありません。
しかし、宇喜多秀家が大坂城に入城していれば局面は劇的に変わったでしょう。
宇喜多秀家は旧臣だけで2万人近くいました。
また、淀君も全面の信頼を寄せたでしょう。
私は歴史にifを持ち込むとすれば宇喜多秀家に大坂の陣に駆けつけてもらいたかったです。
まあ、八丈島から大阪まで直行できる船があったかどうか・・
宇喜多秀家について書きました。
宇喜多秀家の父、宇喜多直家について
真田信繁と宇喜多秀家の大坂の陣