
奈良市長選挙の総括として、思ったことをつらつらと書き続けます。
今回は、独裁者を好まない奈良の地域性の背景についてです。
奈良の歴史的権力の中心は興福寺
奈良は都が京に移ってから、大和国の特徴を作っていくようになったでしょう。
その特徴の最大のものが、藤原氏の氏寺である興福寺です。
興福寺はほとんど奈良県内を支配下に置き、時の鎌倉幕府から【大和守護職】と揶揄されるほどでした。
興福寺内の権力構造 一乗院と大乗院
しかし、ここに一つの権力構造が新たに出来上がります。
それが、興福寺内にできる独走させない権力構造です。
興福寺は一乗院・大乗院という二つの塔頭(寺院の中の寺院)がありました。
一乗院・大乗院は特殊な塔頭です。
鎌倉期以降、興福寺の保護者である藤原家の主な家は京の京都の住まいの住所や通り名を名乗ります。
近衛家・九条家・鷹司家・一条家・二条家です。
いわゆる五摂家です。
この五摂家の子弟が入る寺院として一乗院・大乗院は整備されていきます。
一乗院 近衛家・鷹司家
大乗院 九条家・一条家・二条家
このように分かれていきます。
そして、一乗院と大乗院は交互に興福寺のトップを務めることになります。
生き残りをかける奈良人
その後の明治まで続く、奈良の覇権争いはこの両塔頭による権力争いとなります。
奈良人は生き残るためにはどちらかが独走するのを好まず、またどちらが勝っても生き残るように工夫します。
長男は一乗院へ、次男は大乗院へ。
当主は一乗院へ、叔父が大乗院へ。
このような形で生き残りをかけて、奈良中の人間が神経を研ぎ澄ましていました。
一乗院の下には 筒井家・越智家を中心とした豪族があり、権力が奈良の隅々まで浸透します。
大乗院の下には 古市氏・十市氏・箸尾氏を中心とした豪族がおり、権力が奈良の隅々まで浸透します。
このように、奈良は一つに権力がまとまることがありません。
これは地理的制約の中で発生する仕組みなのか、人文的な感覚の中で培われてきたものか。
そのどちらでもあるように思います。
偶然?一乗院と奈良県庁・大乗院と奈良市役所
その上で、一乗院は奈良地方裁判所のあたりに存在していました。
すぐ隣が奈良県庁ですね。
大乗院は、奈良ホテルの南側です。
奈良ホテルの西側にはかつて奈良市役所が存在していました。
まとめ
どこか相反するような形の2つの組織が同居するのが奈良市ではないかと思います。
県知事が市長を交代させようと思っても、それを好まない勢力が存在しますが、時にそれが大きなうねりとなるのかもしれません。
奈良市政の背景にあるものを考えてみました。