
毎年暑くなると、太平洋戦争の特集番組などが組まれていきます。
一時期は戦争における怖い話なども扱っていた時代がありました。
ボロボロの軍服を着ている幽霊が出るとか出ないとか。
日本軍の軍服は決まってボロボロだった気がします。
ただし、奈良市戦争展で紹介されていた当時の軍服の縫製は今見てもキチンとしていました。
太平洋戦争の記憶 日米繊維戦争とパラシュートを紹介します。
明治維新の殖産興業の目玉は生糸産業の発展
明治時代、日本は世界に見識を広げ、自国がどのような立ち位置を作り上げるのかを考えます。
明治の草創期、日本は大久保利通という政治家に率いられていました。
大久保は欧米を視察し、労働力の安い日本で生糸の産業を広げることを考えます。
帰国後は富岡製糸場に代表される生糸産業を広めるべく手を打ちます。
当時、日本は農家が農閑期に蚕を育てて生糸を作る家内製工業は広がり始めていました。
特に関東甲信越地方の山間部では蚕が好きな桑の葉を多く育てることで、近代産業の原型を作っていました。
その素地も活かし、大久保は生糸による富国強兵を勧めました。
結果、明治42年に日本は生糸の輸出が世界一となりました。
奈良市戦争展にて展示された軍服の縫製
奈良市戦争展では軍服が飾られていました。
とても新しく、また未着のもののように綺麗でおそらく新品のままだったのではないかと思います。
日本人が戦後に見せられていた軍服は出征した兵士たちの来ていたヨレヨレの服だったと思います。
しかし、実際にはこのように綺麗な縫製が施されていました。
日本は明治以降、生糸を中心にした軽工業を広げていきます。
私の母方の高祖父にあたる人は福岡県久留米市で久留米絣の組合長をしていました。
毎年膨大な数を出荷しており、家としては直営の工場の他にも刑務所に発注して納品してもらうようなこともやっていたようです。
日本の生糸が負けた日米戦争
そんな日本の生糸は米国との競争に負けてしまいます。
米国は化学繊維のレーヨンを投入しました。
そして、同時に中国にて日本の生糸の販売を減らそうと反日運動の支援に回ります。
その一つが、満州を巡っての日米交渉でした。
日本の生糸よりもレーヨンの方が安いこともあり、日本は徐々に押されていきます。
また、当時日本の最大の基幹産業だったこともあり、販売ルートの確保は至上命題でした。
あまり語られていないですが、日本が世界に進出しようと目論んだ理由の一つはこれでした。
また、これは京都西陣の織物会社の社長に聞いた話なのですが、戦艦や空母は多くの絹が必要らしいですね。
そして、軍隊が侵攻する時に行う作戦の一つにパラシュートでの落下傘部隊があります。
このパラシュートもまた絹で作られたそうです。
さすがにパラシュートに絹は勿体無いのではないかと当時は聞きながら思っていました。
ただ、よくよく考えると、それだけ絹が余っていたのかもしれないですね。
日本はインドネシア攻略の際に、このパラシュート部隊が活躍します。
後方の兵站部隊が惰弱だった印象のある日本軍。
この展示されていた冬用の軍服に対して夏用は支給されていたのでしょうか。
そんなことを考えていました。
太平洋戦争の記憶 日米繊維戦争とパラシュートについて紹介しました。