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塙団衛門直之の名刺・木札や子孫・真田丸のことなど

歴史 真田丸

塙団衛門。

塙団衛門とは、ばんだんえもんと呼びます。

塙ははなわと書きますが、彼の出自は遠州横須賀です。

塙団衛門は小笠原家の支流だったといわれています。

大河ドラマ真田丸でも異彩を放った塙団衛門直之。

塙団衛門直之の名刺・木札や子孫・真田丸のことなど紹介します。

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塙団衛門直之の出自

塙団衛門は幼少期等の話はあまり残っていません。

名前が出るのは朝鮮出兵前に加藤嘉明に召し抱えられたことです。

団衛門は朝鮮出兵で活躍します。

その活躍を賞して加藤嘉明から恩賞として1000石の地行と鉄砲頭の地位を手に入れます。

塙団衛門直之の関ケ原の戦いの逸話

関ケ原の戦いでは、鉄砲頭であるにも関わらず、先頭に立って突撃したようです。

それを主人の加藤嘉明が見て激怒します。

加藤嘉明は団衛門に向かって「人の上に立てないやつ」と言ったそうです。

それがもとで加藤家を致仕します。

塙団衛門直之の子孫の家にはこの鉄砲頭の頃の絵が残っています。

関ケ原の戦いの最中に致仕したとも、その後退去したともいわれています。

その際に塙団衛門は加藤嘉明に捨て台詞のように漢詩を置いて退去したそうです。

「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎」

身はついに江南の水にとどまらず、高く飛ぶ一閑の鴎。

モメは小さな水たまりにはとどまらずに高く飛びあがる。

その意味を知って加藤嘉明は激怒しました。

塙団衛門が味わった奉公構

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そして加藤嘉明は大名仲間たちに塙団衛門を召し抱えないように要請します。

これを当時の言葉で奉公構(ほうこうがまい)といいます。

それでも加藤嘉明よりも格上大名が彼を召し抱えましたが、その家はその後改易になりました。

団衛門はその後、妙心寺の僧籍を取り、鉄牛という名前を名乗りました。

やがて、豊臣方と徳川方に不穏な空気が出始めます。

そこで豊臣方に付くか徳川方につくか迷ったそうです。

その結果、勝てば豊臣方の方が恩賞が多いだろうと豊臣方に付きました。

塙団衛門直之の名刺と木札の逸話

塙団衛門が活躍するのは、大坂冬の陣の夜討ちです。

真田丸45話砲弾でも団衛門の夜討ちが登場しました。

本町橋の夜戦です。

ここで、団衛門は阿波徳島県の蜂須賀勢に夜討ちを敢行します。

油断していた蜂須賀勢の一部は混乱し、多くが打ち取られます。

その際に、塙団衛門は木札を置いていったといわれています。

真田丸でも団衛門は木札を敵の死体においていました。

団衛門が置いていった木札は名刺代わりでした。

その木札には塙団衛門参上、とか、夜討ちの大将塙団衛門と書かれていたという逸話があります。

 

塙団衛門の名刺代わりの木札の意味とは

ではなぜ、塙団衛門は木札を名刺代わりに置いていったのでしょうか。

これは徳川方にいた加藤嘉明への当てつけです。

加藤嘉明はかつて団衛門に人の上にたてないやつと罵りました。

それへの趣意返しだったようです。

 

塙団衛門の逸話・・・大坂夏の陣の逸話

やがて大坂夏の陣が始まります。

お城を失った豊臣方は牢人衆を再度募集し戦いの準備をします。

それを家康は大坂攻めの口実にします。

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大坂夏の陣の先端が開かれたのは大坂泉南でした。

塙団衛門は大野治房の配下に配属されています。

大野治房は2万の兵隊で、和歌山の浅野を攻めることになりました。

団衛門は先鋒を任されます。

しかし、同時に岡部大学という人物も先鋒を任されていました。

その競争の中で、団衛門はたった10人で3000名を超す浅野勢に突撃します。

その10人の突撃で浅野の先鋒は崩れたといわれています。

しかし、多勢に無勢。

団衛門は泉佐野市で戦死します。

お墓は泉佐野市樫井に今でも残っています。

他にも塙団衛門の子孫は三重県や島根県にお住まいなのでそこにもお墓があります。

私は島根県のお墓にはお参りしました。

塙団衛門の子孫は後にたたら製鉄の大元締めの一つになります。

塙団衛門が鉄砲を持っていた逸話が何か子孫にも活きているように思いました。

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この浅野との戦いは大野治房のような戦争に慣れない武将に任せるべきではありませんでした。

やはり、真田幸村や後藤又兵衛・明石全登などに任せるべきでした。

大坂夏の陣に豊臣方が勝つためにやるべきだった4つのこと

団衛門は江戸時代、この派手な戦のやり方で大坂の庶民に大人気になりました。

江戸時代、真田幸村や木村重成の活躍よりも塙団衛門が一番人気だったそうです。

人間とはわからないものですね。

 

塙団衛門は結局は名をあげたかったといわれています。

そんな剽軽な性格も人に大人気だったのでしょう。

塙団衛門の名刺・木札や子孫・真田丸のことなどを紹介しました。

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