地域活性局

藤丸正明

大坂夏の陣に豊臣方が勝つためにやるべきだった4つのこと


 

戦国時代最後ともいえる大坂夏の陣。

夏の陣までくると、もはや勝利は難しかったといわれています。

しかし、万が一の可能性を探してみました。

大坂夏の陣に豊臣方が勝つためにやるべきだった4つのことを紹介します。

2016-04-14 13.09.51

 

1 軍配を真田幸村(信繁)に預ける

大坂夏の陣。最後の戦いとして大坂方有利の戦況が垣間見えます。

しかし、実際の戦果はバラバラでした。

先に出撃した木村重成・長曾我部盛親・後藤又兵衛の部隊は目前の敵には痛烈に勝っていたにも関わらず後続不足で結局は消耗し、敗退せざるを得ませんでした。

総大将の指揮のもとに組織が動く体制ができていれば結果は違っていたでしょう。

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2 浅野長晟との戦いは大野治房ではなく大坂五人衆の誰か任せるべきだった

大坂夏の陣の序盤は大坂泉南樫井の戦いです。

豊臣方は大野治房が総大将に軍勢は約2万。

徳川方の浅野長晟は軍勢は約5000。

しかし、政戦ともに浅野に軍配があがります。

というよりは実際は大坂方の自滅的行動でした。

 

夏の陣勃発前。

大野治房は兄の治長暗殺を主導しますが、暗殺は失敗します。

その後、治長から命令を受けた治房は議論もせずに出陣します。

ばつが悪かったのでしょうか。

その命令は大和(奈良)と紀伊(和歌山)に攻め込めという命令でした。

目的がなんと2つありました。

本来は目的は1つにするべきですね。

 

この戦いまでの背景は以下の通りです。

家康は当時名古屋にいます。

名古屋の徳川義直に紀伊(和歌山)浅野家から姫が嫁ぎます。

その婚礼の席を名目に家康は名古屋までやってきていました。

これは大坂を油断させるための完全な偽装です。

 

浅野家といえば、秀吉の正室寧々の実家。

家康の政略はまずは浅野が豊臣に攻めかかる。

豊臣の親族の浅野から戦うのかと世間に思わせました。

 

その浅野の行動に大野治長は激怒します。

夏の陣こそは浅野は豊臣方に付くと治長は考えていたそうです。

大野治長の見通しの甘さが出ています。

 

その浅野がいち早く敵対行動を始めます。

 

大野治長にも策がありました。

浅野が和歌山から出た途端に和歌山中の地侍が蜂起する。

そしてこれがほぼ成功寸前までいきます。

浅野方は和歌山城の本丸を残してすべて地侍に占領されます。

しかし、浅野方の反撃でその蜂起は鎮圧されてしましました。

 

この蜂起に合わせて大野治房の部隊は和歌山へ向かいます。

しかしこの際、先鋒を2名に命じるという愚策を呈します。

先鋒とは軍隊の戦闘を進む名誉あるポジションです。

それに選ばれているのが二人・・・。

岡部則綱と塙団衛門です。

この2名は自らが先鋒だと主張しあい、敵も忘れて先陣を競います。

 

その結果、治房本軍が四天王寺に集結していた際に貝塚まで進出してしまいます。

そして、塙団衛門は10名程度の側近と突撃し討ち死にします。

この後、貝塚まで進出した大野治房は戦場に遅れて到着後、四天王寺まで後退しました。

奈良に討ち入りをした後に貝塚まで進出した部隊は疲れていたのでしょう。

大野治長が和歌山の地侍を扇動し、弟が出陣する。

すべて大野兄弟の失策でした。

この戦い後、豊臣方の士気は一度に下がったそうです。

これを長曾我部盛親や明石全登などが担当していれば勝っていたでしょう。

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3 天王寺の戦いで雌雄を決するべきだった

大坂方は当初、大和(奈良)から険路を越えてくる徳川方を確保撃破する作戦でした。

河内若江の戦いで木村重成が戦死します。
そして国分の戦いでは後藤又兵衛が戦死します。
長曾我部盛親の部隊も激しい消耗をします。

濃霧の関係か真田部隊が遅れ、戦いは中途半端に豊臣方が各個撃破されることになります。

徳川方でも藤堂高虎・井伊直孝の部隊が戦闘できなくなるほど甚大的な損害を受けます。

また、大和国分で先鋒を務めた水野勝成はその部隊の消耗から先陣から引きました。

 

夏の陣は徳川方15万に豊臣方8万人と倍以上違います。

木村も後藤も長曾我部は善戦します。

しかし、豊臣方の方が人数が少ない以上、消耗戦では非常に不利でした。

 

その後、真田幸村と毛利勝永が突撃して家康本陣を蹂躙する天王寺の戦いが起こります。

天王寺の戦いに真田・毛利・後藤・木村・長曾我部隊が揃えば、面白い戦いになっていたでしょう。

また、秀頼も秀頼の近臣木村重成や譜代の毛利勝永がいれば秀頼の出陣も可能でした。

大坂の陣の戦いを通じて、豊臣方の牢人衆は秀頼の出馬を重要視していました。

徳川方についているほとんどの大名はもとは豊臣家の家臣です。

秀頼の旗が戦場に立てば、裏切らないにしても戦意が相当下がったでしょう。

家康は秀頼が戦場に出てこないように、茶々などに非常に緻密に工作を続けて成功させています。

 

天王寺の戦いにて、豊臣方主力が秀頼の元に団結して戦えば、勝機は十分にあったでしょう。

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4 天王寺の戦いで竹田永翁が勝手に鉄砲を撃たなければ

天王寺の戦いでは、真田と毛利が横に陣を敷き、敵を迎え討ちます。

幸村は四天王寺や茶臼山の見通しのきかない隘路に敵を引き付けて鉄砲による銃撃で相手の損害を増やそうとしていました。

相手は豊臣方を滅ぼすために、前進せざるを得ません。

そして徳川方の先鋒に鉄砲による損害を与えていれば、先陣・中陣は前に進み、家康の本軍との距離ができます。

その間隙に、船場に身を潜めていた明石全登の騎兵500が突っ込み、家康の首を取るという作戦でした。

 

鉄砲はこの時代、一般的に敵が発砲すれば味方も発砲します。

鉄砲の有効射程は100メートル程度です。

そのため、相手が射程距離内に入らなければ撃ってもしょうがないものでした。

しかし、戦場心理は違います。

鉄砲を撃つという行為が将兵の気持ちを安定させます。

戦争の前には歴戦のつわものでも武者震いしたと言います。

そんな中、大勢の徳川方が目前100メートル以内に入るまで待つことは難しかったでしょう。

 

ここに竹田永翁という人物がいます。

彼は毛利勝永の部隊に所属していました。

竹田永翁やその隣に布陣した渡辺糺は豊臣家譜代です。

途中から入ってきた毛利や真田に服するのを潔しとしませんでした。

にもかかわらず、この2名は毛利勝永の部隊につけられました。

竹田永翁が銃撃戦を始めた結果、相手もそれに応じます。

結果、鉄砲により損害を与えるという単純な戦法は破綻してしまいました。

幸村は自分の戦略が敗れたと肩を落としたといわれています。

この後、幸村は捨て身の突撃戦を敢行することになりました。

 

 

いかがでしょうか。

大坂冬の陣は大坂五人衆は講和に異議を唱えませんでした。

理由として、城内の統制が取れていないことをあげました。

その後、織田有楽斎の退去等はありましたが、結局は城内の統制が取れず、敗退となりました。

大坂夏の陣に勝つために豊臣方がやるべきだったことを考えてみました。

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