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甲斐を語る⑤頼朝を助けた武田信義と安田義定が粛清された理由

山梨

律令制が崩れ始め、各地の豪族は荘園を広げ、軍事力を持つようになります。
源頼信が東日本に勢力を作り始めたのがおおよそ1000年前後。
それから180年の間、源氏の勢力は関東に勢力を蓄えます。
1180年の源頼朝の旗揚げによって、その荘園領主達が朝廷から独立の動きを進めます。
甲斐を語る➄は、頼朝を助けた武田信義と安田義定が粛清された理由を紹介します。

甲斐源氏4代目、武田氏初代当主武田信義

5月になると端午の節句に合わせて武者絵の肖像画が床の間に掛かります。
その武者絵で最も多いのは、源八幡太郎義家でしょう。

当時、畿内の朝廷の問題は、東北の蝦夷と呼ばれる北辺の強敵でした。
陸奥の国の蝦夷・安倍頼時・貞任を征伐した(前九年の役)のは源頼義・義家です。

そして、義家はその後、後三年の役にて出羽の清原氏を従属させます。
この時、朝廷から裁可が出ずに単独で東北征伐に向かった義家を助けたのが弟の義光です。
この義光が新羅三郎義光と言われ、甲斐源氏の祖と呼ばれる人物です。

義光から義清・清光と続き、信義を迎えます。
清光には加賀美遠光や安田義定など有能な弟が存在します。

甲斐源氏安田氏の祖安田義定

安田義定は、八代荘停廃事件で三枝氏が没落したことを見て、甲斐東部に進出します。
八代停廃事件とは、熊野大社領を巡る土地問題です。

安田義定は、源頼朝の挙兵にいち早く助力します。
兄の弟の信義よりも早い動きでした。

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富士川の合戦

武田信義と安田義定は、源氏と平家の東海道決戦である富士川の合戦に出陣します。
富士川の戦いは、甲斐源氏の朝駆けにより水鳥が驚き飛んでいくことで平家は逃げ散りました。

この頃の甲斐源氏は、甲斐への入植が順調で、それなりの戦力を保持していたでしょう。
鎌倉の頼朝から見ても頼りがいのある存在だったでしょう。
富士川の合戦の温床として、武田信義は駿河国守護・安田義定は遠江守護を授かったといわれています。
頼朝は甲斐源氏を平家との防波堤にしたかったのでしょう。
この頃、源頼朝・木曽義仲・武田信義は朝廷から危険人物と留意されていました。
源氏とは、平家とは違い、身内を成敗しながら、集権制を進めます。

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身近な勢力は敵視されやすい

頼朝は、木曽義仲を倒した後、武田信義と安田義定の勢力を削ぎにかかります。

安田義定は息子の行動を咎められ、息子共々誅されています。
武田信義も失脚すると共に、息子2人が頼朝に殺されており、1人が追放されている。

甲斐源氏は甲斐国内の各地の荘園経営が順調だったのでしょうか。
とても軍事的には躍動感があります。
一方で、甲斐源氏の勢力を不安視した頼朝によって分断や粛清の対象になっています。
鎌倉は隣国であり、鎌倉から見れば、目の上のたん瘤だったのでしょう。

甲斐源氏はこの後も、武田信玄による領内支配体制が確立するまで親族関係に不安を持ちます。

甲斐を語る➄頼朝を助けた武田信義と安田義定を紹介しました。

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