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甲斐を語る⑥武田信虎の甲斐国経略と甲府の都市計画

山梨

鎌倉期・室町期と武田氏は受難の時代を耐え続けます。
その受難の時代を脱出するべく経略を進めた武田信虎。
甲斐を語る➅武田信虎の甲斐国経略と甲府の都市計画を紹介します。

甲斐の弱点は東と南

甲斐国は武田氏の支配が進みます。
しかし、同時に外的からの圧力を受け続けます。

地図を見れば、南側の駿河国・東側の武蔵国は平野が広く大勢力ができる可能性が見えます。
過去の甲斐への侵略のほとんどは南と東から起こっています。
実際に駿河は今川氏・関東には北条氏という大勢力が戦国期には形成されていました。

この場合、甲斐国内の南側の勢力と東側の勢力が非常に重要になります。
甲斐国は標高1000mの山々に囲まれているので、国境で防ぐことができる可能性があります。
ただし、侵略側はそれを知ってか、入り口の敵の攻略を進めます。

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甲斐国東の郡内の小山田氏

東京から山梨へ甲斐路(カイジ)に乗って行くと、大月という駅があります。
その大月駅の桂川の対岸に岩殿城があります。
こちらは甲斐の有力豪族、小山田氏の居城です。
岩殿城は難攻不落のお城として知られています。
関東からの攻撃の場合はこの岩殿城攻略が甲府盆地へ入る鍵となります。
甲府盆地の勢力から見れば、この小山田氏の帰趨が非常に重要になります。

甲斐国南の河内地方の穴山氏

一方、静岡から富士川を北上するルート上にあるのが下山城です。
この下山城は穴山氏の居城です。
大きな河川とそれに掘削された河川沿いに道が通っています。

この二カ所をしっかり押さえることが甲府盆地の安定につながります。

武田信虎はこの小山田氏と穴山氏を重視することにより武田一門をまとめ上げます。
ただし、完全に従属というより連盟のような緩やかな主従関係だったのではないかと思います。

武田信虎は国内の地理的要因から来る問題を解決し、武田氏の支配を強固なものにします。

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武田信虎が作った甲府

https://hkpt.net/event/kaifuchu-jyokamachi/

こちらのサイトにとても詳しく書いていました。

武田信虎は甲府の町を作ります。
武田氏の館躑躅ヶ崎館を北側に作りそこから南へ城下町が広がります。
武田信虎の時代、まだ石垣や天守といった後の城郭の思想がありません。
信虎は甲府の北側の要害山にお城を作ることで、臨時の際には逃げ込みます。

甲府に甲斐国内の有力豪族の居住空間が広がります。
それまで豪族は各領地内に住んでいます。
出陣となると、甲府に集まって出陣するでしょう。
そうすると、動員に時間がかかります。
しかし、普段から甲府に集まっていれば、出陣の際にもスピード感が違います。

また、それ以上に、コミュニケーションがとりやすい環境となるでしょう。
まだ、城下町への家臣団集中が進んでいなかった時代。
いち早くその形に類似した形を作った信虎という人は尋常ではない慧眼の持ち主だったでしょう。

武田信玄が多くの家臣団に囲まれていた理由

武田信玄は甲府の北の要害山城で戦いの最中に誕生します。
信玄は幼少期から多くの家臣団に囲まれる環境を持ちます。
これは信玄という人が対人関係に秀でていた理由の一つでしょう。
この環境を生まれながらに持たされた信玄は幸運だったと言えるでしょう。
甲斐24万石の基礎となったのはこの甲府の町の誕生だったでしょう。

甲斐を語る➅武田信虎の甲斐国経略と甲府の都市計画を紹介しました。

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