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太平洋戦争の記憶・・軍国少女の大東亜

太平洋戦争の記憶

毎年お盆が近づくと、先の大戦の特番が特集されます。
NHKが初めて放送した玉音放送特集番組で脳溢血になって亡くなった祖父。
祖父が生きていれば、僕は違った人生が待っていただろうといつも思います。
祖父がどんな気持ちでその放送を見ていたのか。
その気持ちに少しでも近づくために、太平洋戦争の記憶を人に聞いています。

今回は、6月3日に亡くなられた田中芳子さん94歳の大東亜戦争です。

太平洋戦争の記憶・・軍国少年と軍国少女の1942年

 

田中芳子さん、旧姓は永尾芳子さん。
1927年、船場生まれの芳子さんは小さいころから軍国少女だったそうです。

そのころの社会は恐慌と打開策としての軍国への希望が時代を作っていきます。

震災と恐慌と

1923年 関東大震災
1927年、昭和金融恐慌
1929年 世界恐慌
1930年 昭和恐慌

このような状況下、日本人は過去の栄光(日ロ戦役)に縋ったのでしょうか。
戦勝神話によって社会不況を脱したいと思っている人が多かったのでしょうか。

恐慌脱却とブロック経済

1932年 満州建国

中国東北部に駐在していた関東軍が満州国を建国させます。
このころ、日本人は果たして世界の情報を正確に把握していたのでしょうか。

蔵相高橋是清のインフレ策が功を奏し、世界に先駆けて恐慌を脱した日本。
列強はそれに対抗するように、ブロック経済を敷いていきます。
自国と自国の植民地の流通・経済を囲い込む政策です。
英国・仏国・米国は多くの植民地を生かしてその政策を行います。
ソ連は、社会主義が功を奏し、恐慌を受けなかったといわれています。

そして、植民地がなく、ブロック経済が作れない準列強の独国・伊国。
二か国はナショナリズムの台頭からファシズムへと展開していきます。

日本は満州国の建国・朝鮮経営・台湾経営・太平洋の委任統治の島々があります。
そこでか細いブロック経済を作ろうと画策しますが、失敗します。
その結果、日本はナショナリズムからファシズムへと突き進んでしまいます。

この時代に青春を送った芳子さんは、軍国少女だったと回想しています。
軍国少年・軍国少女だったという話はよく聞きます。

芳子さんの遺書

芳子さんは息子さんへ遺書を残して亡くなられました。
生前の親子の交流への感謝と共に、書いてあったこと。
要約すると以下のようなことでした。

大東亜戦争は、無知な国民の起こしたことだった。
当時、軍国少女だった自分を恥じると。
半生の悔いだった  と。

遺書の中に書くということは、個人の中に強烈に残った記憶だったのでしょう。

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準備不足の構想

日本は、太平洋戦争にあたって、大義名分としてある考えを提唱します。

「大東亜共栄圏」構想。

アジアは日本を盟主にして欧米の植民地から独立していく。

当初、その構想はアジアの多くの国を発奮させました。
しかし、日本は占領した多くの国で軍政を敷きます。
軍政官や、占領地の差配を行っていた人たち。
その人たちはその構想の中身を知らされていたのでしょうか。

先日、NHKの特集を見ました。
現地の人の日記をデータベース化した情報が公開されていました。
当初の歓迎から失望・反抗へと変わっていく記録。

日本人は準備不足だったのでしょう。
日本の米国への宣戦布告は真珠湾攻撃後50分が経っていました。
前日、日本大使館の職員たちは職員の送別会で電報に気づかなかったそうです。
悪いことは連続で重なる時があります。

1億総玉砕を謳った当時の日本。

本来は1億人いれば、1億通りの考えがあったでしょう。
しかし、時代はそんな個性は求めない全体主義の時代でした。

加速する軍国主義

1936年 2.26事件
1937年 日中戦争
1942年 真珠湾攻撃

日本は突き進んで、そして完膚なきまでに打ちのめされます。
失ったこと・ものは多かったでしょう。

大東亜共栄圏が確立された構想であったのであれば・・・。

戦後、結果として独立できたアジアの国々。

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大義名分と相応の責任

明治から培ってきた世界の潮流に乗ってきた日本はなくなります。
77年後の2022年。今、その結果から当時を語るのは容易です。
しかし、当時は何も対比も検討もできる情報がなかったでしょう。

芳子さんの遺書の中には、大義名分にはそれ相応の責任があると書かれていました。

戦前の政治・軍事は特定の人間が暴走して、国民は流されるままだった。
そう考える人もまた多いと思います。

一方で、社会の雰囲気は社会に参加する全員が作るという考えもあります。
その全員が作った雰囲気の中で、軍国に進んでしまったと。
芳子さんはそういう考えに至ったと、遺書の中で教えてくださった気がしました。

私は現在38歳。もうすぐ39歳になります。
芳子さんに初めてお会いしたのは21年前。

戦争経験者が亡くなり風化していく時代に育っています。
一つ一つ書き残すとともに、歴史を文化にしていく作業をしたいと考えています。

太平洋戦争の記憶・・芳子さんの大東亜戦争 でした。

 

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