阿波徳島の戦国大名三好長慶。
まだまだ知られていない部分の多い武将です。
しかし、300万石近い大版図を築いた三好長慶は天下統一の先駆けと言われています。
どんな人物だったのでしょうか。
三好長慶の天下統一と家臣たちを紹介します。
三好長慶の家臣たち
三好長慶は、阿波徳島の戦国大名です。
三好氏は本来は主君細川氏の畿内での争乱に合わせて阿波勢を率いて参戦することが常態化していました。
それを三好長慶は1540年、18歳の頃より、畿内に定着し、二度と阿波には戻りませんでした。
そんな三好長慶の家臣は大きく2つに分かれます。
阿波時代からの一族・譜代衆。
畿内進出後の畿内衆。
三好長慶は阿波時代の家臣を中心に畿内での戦いを進めます。
一方で、畿内にて新たに仕官する家臣たちも組織の中に組み込んでいきます。
そんな三好長慶の家臣として著名なのが、松永久秀・松永長頼兄弟でした。
三好長慶と松永久秀
三好長慶の家臣松永久秀と長頼は摂津国高槻の出身だといわれています。
最近、高槻の旧庄屋の家がその伝承の証拠となるものを公表しています。
そうすると、三好長慶が松永久秀に出会ったのは畿内進出後になるでしょう。
三好長慶が畿内に本格進出したのは1540年です。
松永久秀は1508年または1510年生まれといわれています。
三好長慶が松永久秀を家臣にしたのは松永久秀が32歳または34歳となります。
三好長慶から見ると松永久秀は12~14歳年上の人物です。
松永久秀の逸話の中に彼が美男子で古典礼儀に通じていたという話があります。
実際に三好長慶は松永久秀を祐筆(秘書)として採用しています。
三好長慶と麒麟がくる
三好長慶はこれまで、悪の権化の1人のように描かれてきました。
滅びゆく足利政権を支えるグループと、それを牛耳る人物。
三好長慶は麒麟がくるに限らず、そのような扱いが大変多いです。
しかし、畿内の実際の情勢はどうだったのでしょうか。
結果的に諸勢力を掌握し、治政下に収めたのは彼が必要だったからと言えるでしょう。
この感覚は後世から忠孝というポイントだけで見ずに冷静に考えなければならないところです。
三好長慶がなくなった大東市
三好長慶は大東市にあった飯盛山城で晩年を過ごします。
晩年は病気がちだったと言われています。
それも精神病です。
私は個人的に弟の実休を失った1561年からが少し気になっています。
頼りになる弟だったでしょう。
そんな三好長慶を大東市は顕彰する運動を始めています。
私ももっと評価されてよい人物であると思います。
三好長慶について、検索ワードを元に少しまとめてみました。
引き続き三好長慶を語っていきたいと思います。