大阪より山崎の戦いの決戦地を望む
戦国末期の畿内。
明智光秀は鉄砲で出世しました。
しかし同時に明智光秀は実は鉄砲で破滅しています。
明智光秀の鉄砲の逸話・明智光秀は鉄砲で出世して破滅しました。
明智光秀の鉄砲による逸話
明智光秀は青年期に城を失い諸国を放浪します。
その際に畿内の色んな都市を見たでしょう。
また、最近では明智光秀は足利幕府の奉公衆だったということを書いた文章が見つかっています。
明智光秀は鉄砲の技術があったという逸話があります。
明智光秀のことを記した記録の一つに「明智軍記」というものがあります。
信ぴょう性については議論がされている記録ではあります。
明智軍記にはこのような逸話が書かれています。
朝倉義景はある日、鉄砲の性能を知るためにその効力を観ようとします。
まだ鉄砲が珍しかったころの話です。
そこで食客だった明智光秀が鉄砲の技術があるとして呼ばれます。
縦横30㎝の的が用意されます。
的までの距離は45m。
そこに光秀が100発鉄砲を打ち込んだそうです。
的の中心部分に68発、的の中に32発。
驚異的な数字ですね。
その後朝倉義景は鉄砲を重視するようになったといわれています。
個人的には放浪していた光秀が高価な鉄砲と火薬で訓練する余裕があったのかが気になります。
明智光秀の鉄砲の逸話・・本圀寺の戦い
明智光秀は織田信長に仕官してすぐに京への上洛戦に参加します。
そして、京の留守部隊の司令官の1人に明智光秀を指名します。
信長が岐阜へ戻ってすぐに敵が大挙夜討ちに押し寄せます。
足利義昭は当時、本圀寺にいました。
明智光秀は本圀寺の楼門に登り、鉄砲で防戦を指揮したといわれています。
その精妙さに、敵軍は潰走しました。
明智光秀の鉄砲の逸話・・山崎の合戦で役に立たなかった鉄砲
明智光秀は調練をする武将だったといわれています。
また非常に部下思いの一面があり、戦死した家来のお墓を作ったりしています。
そんな明智部隊は非常に精強だったといわれています。
その中心を担うのが、明智の鉄砲部隊でした。
明智光秀は織田信長を本能寺の変で亡き者にします。
そして、羽柴秀吉との山崎の合戦に向かいます。
この前に、明智光秀はちょっとした魔がさしています。
明智光秀は織田政権下では近畿地方の武将の統率を任されていました。
そして、中でも大和国主筒井順慶を非常に可愛がっていました。
自分の娘を順慶の息子の嫁にしたぐらいです。
そんな筒井順慶が旗幟鮮明にしないんですね。
それで自分の元に来させようと、軍勢を率いて京と大和の国境まで来ます。
ここが洞ヶ峠という場所になります。
そこで大軍勢で威嚇しようとしたんですね。
当時の明智光秀の兵力は1万4000名。筒井順慶は8000名の動員力がありました。
そして順慶は来ないんですね。
そんな時に、尼崎に羽柴秀吉軍が到着したという話を聞いて慌てて山崎に向かいます。
ところが、山崎に向かう途中では雨が降っていました。
そして、木津川・宇治川・桂川が合流した地点を通らなければなりません。
ここで明智の鉄砲隊は火縄が湿ったといわれています。
精強な明智部隊が山崎の合戦で羽柴軍に圧倒されたのはこれが原因だと言われています。
明智光秀は鉄砲にて栄え、鉄砲にて破滅したのですね。
明智光秀と鉄砲の話でした。