福岡県太宰府市。
奈良・京の都の出張所として遠の朝廷がおかれていたのは今は昔の話です。
江戸期以降、太宰府天満宮の領内として封建社会からも外れた特殊な地域。
奈良では大和はくにのまほろばと言いますが、太宰府は福岡のまほろばだと思います。
そんな太宰府に、30年前に、「裸の宰相」がいました。
笑い話ですが、最後までお付き合いください。
ステテコ姿で水撒きをするおじさん
私が小さい頃、私の祖母は太宰府天満宮参道の和菓子屋を切り盛りしていました。
幼稚園から徒歩5分ぐらいの場所にあり、子供にはいい遊び場でした。
2時間に1度ぐらい、実家の隣の工場からお菓子を積んだ車が来ます。
それに乗れば、すぐ実家に帰ることができました。
そんな祖母のお店は休みの日は決まって開店時に向かいのおじさんが水撒きをしています。
ステテコ1枚でほとんど裸でした。
いつも遊び半分に私の方に水をかけてきます。
このおじさんは水撒き以外に何をしているんだろうといつも思っていました。
荒れる予兆のあった太宰府小学校
バブルが崩壊した1990年。
社会は少しずつ経済的発展を失い、末端から経済が崩れます。
その余波は家庭に影を落とし、その影響は子どもに重くのしかかったでしょう。
親が離婚し引っ越していく友人、親が蒸発して転向してきた友人。
家庭内のストレスが子供に乗り、そして子供が学校でそのストレスを出します。
学校では授業参観にミニ四駆が走り、ジャンプを持ってくる生徒もいました。
登校拒否も増え始めました。
うちの実家もご多忙にもれず、父が祖父母の作った和菓子屋を追い出されます。
そして独立となったのが私が小学生を卒業した3月でした。
荒れた中学校
その勢いのまま、中学校は荒れていきます。
中学1年の時、野球部に入っていました。
ただ、父の仕事の関係で精神も不安定だったため、あまり学校には行っていませんでした。
たまに通う学校の部活。
野球部は当たり前ですが、つまらない球拾いやランニングのメニューばかり。
当時、ホームベースの裏にはバックネットがありましたが、たまにその頭上を野球ボールが飛んでいきます。
それは、チームメイトで友人のHとそれを取りに、民家に入っていった時の話です。
中学校の隣の大豪邸
太宰府中学校の隣には無人の大豪邸が建っていました。
僕は基本ビビりなので、どんな怖い人が住んでいるのかとおどおどとしていました。
しかし、Hは違います。
何度も行っているらしく、その家の庭に慣れた感じで入っていきます。
そして、こんなことを言いました。
「あそこに瓦がおいとるやろ、あれこの前俺がわったんよ。先輩むかつくやろ」と。
実際に3枚ほど、割れた瓦がおいてありました。
僕はその後、2日ほど学校を休みました。
後で聞いた話ですが、それがばれて、Hは校長室でこっぴどく怒られたそうです。
Hは停学になる、学校を止めさせられる、親は呼び出されるなどいろんな噂がありました。
しかし、なんの音沙汰もなかったようです。
これも後で聞いた話ですが、その大豪邸は、当時の市長の家だったそうです。
太宰府と奈良の交流会
私は地元の高校を卒業して、大阪の専門学校に行きますが、すぐに辞めます。
田舎の人間が都会に出ると、いろんなカルチャーショックがあります。
そして、やはり歴史のある場所に行きたい。観光の仕事を目指そうと奈良に行きます。
あれば2009年の10月だったかと思います。
奈良市から、太宰府市との交流事業があるから出席されませんかと連絡がありました。
太宰府市役所といっても友人のお父さんがいたという記憶がある程度で、知り合いもいません。
しかし、そこで思わぬ人がいて驚きました。
交流会の際に、自己紹介が回ってきて、藤丸ですと名乗りました。
すると、立ち上がって満面の笑みで僕を指さしてくる人がいます。
見ると、なんとあのステテコおじさんではないですか・・。
参道の偉い人だったのか?など困惑しながら会釈をしました。
すると、ステテコおじさんにマイクが回ります。
「えー、元太宰府市長の佐藤〇〇です」
なに―――――!!
向かいのステテコおじさんは何と元市長・・・。
そして、その後、親し気に話しかけてくるではないですか 笑
ただあきくん、元気にしとるね、奈良がたのしそうやね と 笑
そこで、いろんな記録が脳裏に過ります。
中学校の隣の豪邸は元市長の家だった・・・。
「おじさん、太宰府中の隣に家あった?」
「住んどったよ」
・・・・。
なるほど、中学生に瓦割られても、被害届出せないのはこの人が市長だったからか・・。
その後、太宰府に帰った時に何度か会いましたが、そのことは結局言わずじまい。
元市長は92歳とのことです。
私の祖母も109歳で、まだ生きています。
太宰府は福岡のまほろばです。
宰府の30年前の話、裸の宰相おじさんを紹介しました。