真田家の家紋と言えば、六文銭です。
六文銭とは当時、地獄に行った時に支払うべきお金だといわれていました。
三途の川を渡る時に支払うお金が六銭だったらしいですね。
ここに真田家の心意気が見えます。
武田信玄と上杉謙信の意匠
家紋や旗というのは当時はとても重要な意味合いがありました。
例えば、武田信玄の旗は有名な「風林火山」ですね。
はやきこと風の如し、
静かなること林の如し、
侵略すること火の如し
動かざること山の如し
この旗に敵対勢力は戦慄したでしょう。
それに対して上杉謙信の旗は「毘」です。
毘沙門天の化身だと自らを考えた謙信の渾身の「毘」です。
謙信は軍議などは一切せず、戦争の前に毘沙門堂に籠ります。
そして戦い方が決定すればそれを部下に通知します。
まさにワンマン社長ですね・・
しかし、戦争で謙信は負けません。
武田信玄は実は2回ほど戦争に敗れています。
上杉家の数々の栄光にはこの旗が必ずたてられました。
真田家の家紋六文銭
真田家の家紋は六文銭です。
六銭あれば、死んでも三途の川を渡ることができるという意味です。
戦いで死んでも三途の川を渡ることができる・・。
真田は家紋にも意思がはっきり出ています。
悲壮感ありますね・・
こう天下を狙う人の発想ではなく、ただでは負けないぞ、道ずれにするぞ!というような意思表示を感じますね。
敵方だと、嫌な相手に見えるでしょう。
武田信玄の赤備え
ちなみに、武田信玄は独創性の高い軍隊組織を作っていました。
武田軍が敵と向かい合う場合、攻撃を開始する前に、諏訪太鼓を叩きます。
叩くのは子供です。子供の甲高い声と共に太鼓の音が聞こえてきます。
それがとても怖かったそうです。
後に徳川織田連合軍と武田軍が戦った三方ヶ原の戦いがあります。
織田軍はこの声で動揺し、石礫で総崩れをおこしたといわれています。
また、当時は甲冑(よろい)は黒色がほとんどでした。
武田信玄は自らの軍隊の中に赤色の部隊を作りました。
それが赤備えと呼ばれる部隊です。
武田家では武田四天王のひとり、山県昌景の部隊がそうだったといわれています。
それを武田滅亡後に真似したのが大阪の陣における真田幸村ですね。
大河ドラマ真田丸のポスターの幸村の甲冑は赤ですね。
ここに理由がありました。
一方で、武田信玄を深く愛していた家康もそれを真似します。
井伊直政の赤備え
徳川家康は宿敵武田信玄をとても尊敬していました。
そこで家康は旧武田家の人間を多く雇用します。
そのほとんどを武将井伊直政に付属させます。
そして、井伊隊はすべて赤一色の赤備えにしました。
井伊家といえば彦根です。
彦根といえばひこにゃんです。
ひこにゃんといえば赤い兜ですね。
井伊直政の赤備えはひこにゃんの赤い兜になりました。
地域活性化のヒントっぽい話にやっとなりました・・。
ひこにゃんがつくられた背景にはこのような歴史的ポイントが抑えられていた事実があるのでしょう。
せんと君はどうだったのだろう・・・
当時、上杉と並んで天下最強と言われた武田家のイメージを背負った幸村は大阪の陣で大活躍します。
そこには六文銭の哲学と赤備えの甲冑がありました。