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大坂の陣の和睦交渉に響いた内通者が多かった3つの理由

歴史 真田丸

戦国最後の戦いである大坂の陣。

大坂の陣は内通者ばかりの戦いでもありました。

内通者ばかりの城内は疑心暗鬼であり、それは和睦交渉にも影響しました。

豊臣方に内通者ばかりだった理由が実はありました。

大坂冬の陣の和睦交渉にも影響があった内通者ばかりの3つの理由。

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1.豊臣と徳川はそもそも何重にも婚姻を繰り返して身内同士だった

 

豊臣秀吉の時代から、徳川家とは何度も婚姻を繰り返していました。

秀吉は異父妹の朝日姫を家康の正室にします。

茶々の妹は徳川秀忠の正室お江の方になります。

秀頼の正室は徳川秀忠の娘千姫です。

お互いに人が行き来するので、当然のように御付きの人も随行します。

大坂の陣の際には千姫の側近はほぼ徳川方と見られていたようですね。

このように姻戚関係が重複していたので裏切りの可能性は非常に高かったといえます。

織田有楽のような内通者は重大な情報を流すため、豊臣方には不利でした。

 

2.豊臣の譜代家臣は関ケ原で徳川方についた家臣ばかりだった

徳川家康は関ケ原で西軍に味方した武将などのほとんどを処分しました。

残った豊臣家臣の多くは関ケ原で徳川に通報した人物が多かったといわれています。

大坂の陣後に大名に復帰・徳川家に奉公に出ていた武将は関ケ原でも東軍や内通者でした。

その証拠かどうか、大坂の陣後10年後も豊臣方の武将の捜索は続けられていました。

このように内通者は大坂城内にちりばめられていました。

 

3.負ける見通しがほぼついていた

百戦錬磨の徳川家康と団結力と戦闘力に定評のある三河武士団。

それに対し、豊臣家譜代の家臣はほぼ実戦経験がありませんでした。

関ケ原で西軍について豊臣方として戦った武将が根こそぎいなくなりました。

そのような戦力では常識に見て勝ち目がなかったでしょう。

利口な人物は内通するための準備を怠りませんでした。

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以上の3つが大坂の陣で内通者ばかりだった理由です。

さらに、その内通者ばかりの状況は和睦交渉に非常に不利に働きます。

家康はその状況のさらに上をいく謀略を何度も試みます。

牢人衆が裏切りのためにやり取りをしている書状を偽造し城内に配ります。

後藤又兵衛は播磨50万石である、真田幸村は信州10万石である。

そのお礼の書状を何度も偽造し、城内に配りました。

中にはなんと、豊臣秀頼だけに届くように細工した幸村の書状もあったそうです。

このような心理戦を展開した家康。

秀頼や茶々や大野治長はこれに影響されて、和睦交渉を不利に進めてしまいます。

大坂冬の陣和睦結果ははまさに内通者ばかりだったことが影響したと言えます。

さらに冬の陣の和睦の担当者は裏切者だった織田有楽斎。

茶々が絶対の信頼を寄せていた叔父。

彼が徳川有利に運んだのは立場上当然だったでしょう。

これでは大坂冬の陣は徳川のための和睦交渉だったとしか言いようがありません。

大坂夏の陣の最終段階になる天王寺口の戦い。

真田幸村はここで、豊臣秀頼に出馬を年度も願い出ます。

秀頼が戦場に出れば、豊臣方は士気があがります。

徳川方は豊臣恩顧の大名は怯んだり、怠慢するのではないかと家康は考えました。

そこで、真田が秀頼を戦場で殺しますというような書状を作り、また大坂城内へ。

これに茶々や秀頼や大野治長は最後まで悩まされました。

 

真田幸村は真田丸の戦いでは大活躍しました。

しかし、実際には1614年10月9日に入城したばかりの人物でした。

その人物を信用することが最後までできなかったのでしょう。

大坂の陣で内通者ばかりの3つの理由が和睦交渉に影響しました。

 

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