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平泉高館義経堂と松尾芭蕉・義経堂の御朱印とアクセス

地域 岩手

奥州藤原氏の栄華の都平泉。

その平泉には中尊寺や毛越寺など名残が残っています。

藤原氏の栄華が中尊寺であれば、藤原氏の悲劇はこの平泉高館義経堂でしょう。

平泉高館義経堂は源義経終焉の地といわれています。

平泉高館義経堂と松尾芭蕉・義経堂の御朱印と所要時間・アクセスについて紹介します。

 

京生まれ鞍馬育ちの源義経

源義経は妻静御前や弁慶と共に伝説も残る偉人です。

また、源義経は最期が謎に包まれている点も伝記向きであるといえるでしょう。

そんな源義経の最期の地がここ平泉高館義経堂です。

源義経は京に生まれ、父を幼少期に失くし、鞍馬寺で修業します。

その後、奥州藤原氏の庇護を受けます。

異母兄源頼朝の旗揚げに参加し、平家を滅ぼします。

しかし頼朝とは終始問題続きでした。

頼朝は自分の権威を確定させるために親族を滅ぼします。

やがて義経は京に居られなくなり、奥州へ落ち延びます。

頼朝は義経を匿った罪を奥州藤原氏に問います。

それに抗しきれなくなった藤原泰衡は義経を殺します。

その藤原泰衡が源義経を襲った場所が高館義経堂です。

ちなみに、高館とは義経の居館跡で高館城跡ともいわれています。

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平泉高館城跡義経堂

平泉高館城跡義経堂は平泉の北側、北上川を見下ろす岡の上にあります。

義経堂は、西北に中尊寺・南に柳之御所・無量光院・伽羅御所があります。

藤原秀衡が源義経に高館を建設した理由。

高館義経堂から見下ろす場所に流れる北上川

川隣の岡の上であれば周囲を見渡せ、非常の際に川を使って逃げることができます。

義経堂が高館とか高館城跡などの別名のある理由は地理的な理由でしょう。

歴史が下れば、お城が建つ条件を備えています。

高館とは高い場所に立っている館という意味でしょう。

都の貴人「源義経」に対する藤原秀衡のもてなしだったでしょう。

 

義経堂と松尾芭蕉

義経堂には江戸時代、松尾芭蕉が訪ねています。

義経堂で義経が散ったことに思いをはせた句にしています。

‘夏草や つわものどもが ゆめのあと’

源義経が見た北上川は松尾芭蕉の頃もまた、河川敷の広い川だったでしょう。

その河川敷で義経や弁慶が藤原氏の追っ手と戦いました。

真夏の日差しの中で松尾芭蕉は源義経が散った歴史に思いをはせたのでしょう。

実際に史実では源義経が自害したのは6月15日です。

 

義経堂の御朱印

義経堂では御朱印をいただくことができます。

義経堂の入口に拝観料を支払う事務所があります。

そこで義経堂の御朱印をいただくことができます。

義経堂の御朱印

 

義経堂の駐車場などのアクセス

義経堂へのアクセスですが、JR平泉駅から徒歩18分です。

私はJR平泉駅で電動のレンタサイクルを借りました。

平泉駅からレンタサイクルで7分程度でアクセスできます。

また、義経堂の駐車場は義経堂のすぐ下にあります。

しかし、義経堂は岡の上でちょっと汗をかきます・・・。

また、義経堂界隈は道が狭いので、駐車場は入れにくいと思います。

平泉の観光はレンタサイクルが一番楽しめるように思います。

 

義経堂の駐車場

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あとがき

私は源義経が好きで日本史が好きになりました。

その終焉の地に34歳になってやっとたどり着きました。

義経堂は高館であり武装集団が住んでいたお城跡でもあります。

今はお堂が北上川を見下ろしながら佇んでいる雰囲気です。

歴史とは訪れる人を時に楽しませ、喜ばせ、悲しませます。

しかし、時間が過ぎ去ったあとを見ることで後世の人は落ち着いて歴史を知るのでしょう。

源義経の自害を513年後に松尾芭蕉が句にします。

私もせっかく訪れたので一句書いておきます。

岡の上 歴史を偲ぶ もみじかな

平泉高館義経堂と松尾芭蕉・義経堂の御朱印と所要時間・アクセスについて紹介しました。

 

 

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