大河ドラマ「真田丸」第12話は人質でした。
室賀を打ち取った昌幸は北信濃の小県を領有しました。
徳川家康は小牧長久手の戦いにおいて羽柴秀吉に勝利。
戦争に出ていないのに、肩に傷ができたという話がありました。
また、爪を噛むという彼の癖を諧謔したような場面がありました。
しかし、実際には小牧長久手の戦いは家康の戦術的大勝利でした。
後に政略で秀吉に屈服することになります。
小牧長久手の戦いに勝利した家康は、かねてより北条氏との講和の内容であった沼田の割譲を本格的に真田に吞ませようと圧力をかけてきます。それに対して、真田家は上杉氏を頼ることで難局を切り抜けようとします。
第12話では、上杉景勝に対して直江兼続は色々と献言していますが、兼続はむしろ景勝をリードしていたと言われています。この場面、1584年は28歳の景勝と24歳の兼続。こんな責任の重い仕事を若い二人がやっていたことに驚嘆します。
死ぬまで盟友だった2名の今後にも期待です。
さて、上杉家といえば「義」です。
正しい道を生きるという意味があります。
上杉家といえば英雄上杉謙信ですね。
上杉謙信は新潟や富山を始めとした領地・鉱山・莫大な収入と高級織物の糸「青芋」の莫大な収入がありました。
一説には300万石と呼ばれる収入を得ていたと言われています。
300万石というと300万人の1年分の食糧を生産できる力があるということになります。
簡単に言うと、300万人から税金を取っているとでも言えるのかなと思います。
十数年後の豊臣秀吉の時代は1万石につき250人~300人の兵隊の動員義務があったので、そこから換算すると、75,000~90,000人の兵隊を動員できるだけの実力があったことになります。
謙信の領地は死去の前に最盛期を迎えます。新潟・群馬・富山・石川に信州北部や関東の一部も含みますので、膨大な領地を持っていました。
彼はその豊富な収入を基に、正義の戦いと称する戦いしかしなかったと言われています。
それはその豊かな財政基盤がなしえた数字でした。
同時に、女性を近付けることをしませんでした。
彼は自らを仏教の毘沙門天の化身と名乗っていました。
彼の旗には「毘」という字が躍っていました。
息子のいない謙信の逝去後、後継者を巡って景勝と景虎(北条氏康7男)が争いました。
その結果、後継者となった景勝の領地は新潟の大部分と、富山・長野の一部となり、約50万石の実力になってしまいました。
また、景勝と兼続は共に上杉旗下の上田衆という、上杉家一門の中の一つのグループに所属していました。景勝は後継者争いに勝利後、恩賞の分配で家中に著しく不平を作ってしまったことから家臣の謀反に合います。
その謀反の鎮圧もあり、とても外に出ていく力がありませんでした。
実力が6分の1程度まで規模縮小した中で、20代の2名がやりくりするのは至難の業だったでしょう。
同情します・・。
そこに真田家が現れます。
大河ドラマの中では、昌幸がコロコロと主人を変えていくように書かれていますが、昌幸は自分の力で手に入れた領地をいわば担保として持っています。
その領地ごと主人を替えるので、現代社会の規範上は良くないようにも見えますが、戦国時代は割と多かった手段でもあります。
右についても左についても自分の土地は自分の物だというのは、この時代にはありふれていました。
例えば徳川家でも、酒井や井伊・本多が徳川家に従っているのは、自分の土地を守ってもらうからであり、守ってくれなくなれば、奉公する必要がないという時代でした。
この場面、徳川家康の方でも昌幸が独力で手に入れた領地を代替地もなく、争った北条家に渡せというのは傲慢に見えます。
その上で景勝・兼続と信繁の再会に繋がっていきました。
私の印象ですが、この3名はドラマ中のやり取りのようなことはなかったと思いますが、気が合っただろうなと思います。3名全員が「義(正しい道を生きる) 」という考えが好きです。
上杉景勝・直江兼続・真田昌幸は関ケ原では主役級の立場になり、後の大坂の陣でも昌幸の後継者として信繁が活躍します。
上杉景勝や直江兼続・真田昌幸・信繁は、最終的には家康に負けていきます。
しかし、3人は日本の歴史やその地域の歴史の中に大きな実績を残しています。ここはまた紹介します。
次回は真田昌幸が世間をアッと言わせた上田合戦です。
楽しみです。