武田勝頼の年表からわかる評価や家臣との最後

歴史 真田丸

NHK大河ドラマ「真田丸」の初回に登場した武田勝頼。
大河ドラマ「井伊直虎」でも登場します。

武田勝頼の年表からわかる評価や家臣との最後を紹介します。

武田勝頼の年表

武田勝頼の年表を紹介します

1546年 誕生
1555年 母、諏訪御料人が逝去
1565年 織田信長の養女を正室に迎える
1567年 嫡男信勝誕生。一方、妻は難産のため逝去
1573年 父武田信玄逝去。28歳にて跡を継ぐ
    (勝頼と家臣の対立が始まる・徳川家康が三河・遠江に侵攻)
1575年 長篠の戦にて織田信長・徳川家康に大敗
1579年 上杉謙信逝去。上杉の跡目相続に首を突っ込み北条氏との同盟破綻
    ほぼ、四方八方が敵になる
1582年 滅亡(37歳)

武田勝頼は年表を見てもわかりますが、常に孤独な影が付きまといます。

武田勝頼は武田信玄の4男。長男義信は自害・次男の海野信親は盲目、3男信之は早逝したため、跡を継ぎます。

武田勝頼と家臣団の対立

武田勝頼には一定の評価があります。
父武田信玄は奇跡的な力を発揮し時代を作り上げました。
その常勝武田軍団を武田勝頼は引き継がざるをえませんでした。
武田家には信玄が手元で育てた優秀な武将たちが多く、近隣に響いていました。
馬場信春・山県昌景・内藤昌豊・高坂昌信の4名は特に武田四天王がいました。

天才だった父の信玄と勝頼を家臣団は比べます。
その視線を人一倍感じたのでしょう。

父を超えようと無理ばかりします。

その結果が、信玄が落とせなかった高天神城の攻略であり、信長との一大決戦でした。

武田勝頼を見る家臣団からの視線と信玄の遺言

「3年間は信玄の逝去を秘匿し勝頼の長男信勝を当主として後見するように」。
しかし、勝頼は自信家だったようで、その遺言を無視し、当主となります。

その遺言は同時に勝頼を見る信玄の家臣団からの冷たい視線にもなったでしょう。

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武田勝頼の妻

武田勝頼の妻は岐阜の豪族遠山直廉の娘で織田信長の養女龍勝院です。
他にも何人か、勝頼には妻がいますが、信長の養女が正室です。

武田勝頼を裏切る家臣たち

信玄の死後、すぐに三河北部の家臣たちが家康に寝返ります。
地理的にも勝頼の本拠地山梨よりも家康のいる静岡県浜松の方が近かったということもあったでしょう。
しかしそれ以上に、天才信玄の死は武田家に身を寄せる多くの人を不安にさせたでしょう。

勝頼は裏切った家臣を倒すために三河に押し寄せ、織田・徳川連合軍と戦います。
それが長篠の戦いとなり、武田は総崩れしてしまいました。

武田勝頼は家臣の多くを失います。

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武田勝頼の最後

長篠の戦いから7年、織田信長が動き始めます。
武田勝頼は長篠の戦い以降、必死に挽回をはかりますが、逆効果ばかりでした。

織田信長の調略で長野の木曽義昌の裏切りをきっかけに武田家は滅亡します。
総勢10万を超える織田の大軍が武田領に殺到しました。

勝頼は家臣の裏切りに遭い天目山にて50名の近臣・妻・息子の信勝も自害しました。

武田勝頼の最後は家臣の裏切り総崩れであっけなく武田600年の歴史に幕を閉じます。

武田勝頼の最後と共に地域も焼尽くされた

勝頼の母の実家は諏訪家といい、長野県の諏訪大社の家です。
諏訪大社も信長の侵攻によって焼きつくされました。

諏訪大社はこちら

諏訪大社の御朱印帳と四社めぐりと御柱を参拝しました

武田信玄が崇敬していた武田家の菩提寺、恵林寺も燃やされます。
地域の大名がほろぶ時、地域の文化は一つの終焉を迎えるのでしょう。

武田勝頼は年表からもわかるように家臣の裏切りが最後を作っていきました。
偉大な父とその薫陶を受けた家臣と勝頼はうまくいきませんでした。
それは年表以上に、武田勝頼という人物の孤独な輪郭を表現しているように思います。

武田勝頼の年表からわかる評価や家臣との最後を紹介しました。

武田家の軌跡を山梨県まで見に行きました。

武田信玄の居館躑躅ヶ崎館跡の武田神社に参拝しました

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