武田信玄の居館躑躅ヶ崎館跡の武田神社に参拝しました

地域 山梨 視察

戦国最強の武将武田信玄。

武田信玄の子孫は息子の四郎勝頼・信勝の時代に絶えています。

しかし、武田信玄はその生きざまから名言や家臣の話が今にも多く残ります。

武田信玄の最も有名な名言「人は石垣・人は堀・・・」。

武田信玄は城を持たない方針だったと言われています。

それは人こそが大事であるというのが武田信玄らしい名言ですね。

そんな武田信玄が城代わりに使っていた居館が躑躅ヶ崎館です。

その躑躅ヶ崎館跡は現在、武田神社になっています。

武田信玄は現在武田神社の御祭神となっています。

武田信玄の居館躑躅ヶ崎館跡武田神社に参拝しました。

武田信玄の出身地甲府

武田信玄の出身地甲府。

武田信玄は戦国大名です。

しかし、いわゆる成り上がりの大名ではありません。

武田氏は平安時代後期に甲斐国に土着した一族です。

武田の祖先は源新羅三郎義光で源氏の中興の祖源義家の弟です。

日本の武家の中でも名門中の名門です。

武田信玄の年表

武田信玄の年表を簡単に紹介します。

1521年 武田信玄は躑躅ヶ崎館に生まれます。

1554年 三国同盟を締結。

1559年 信濃国の大部分を制圧する。

1566年 西上野を制圧

1568年 駿河国の大部分を制圧

1570年 駿河国完全制圧

1572年 逝去。

武田信玄の年表はこんな感じです。

武田信玄の出身甲斐国

武田氏はこの躑躅ヶ崎館を根拠地として甲斐国中に根を張っています。

この当時、ほとんどの地域は小さな領主(以下 小領主)がいて、その領主の上に戦国大名がいます。

小領主は自分の領地内に住んでいます。

その上で小領主は例えば武田信玄に所属はしています。

しかし、武田信玄の形勢が悪くなると、敵方にも裏切ることも珍しくありません。

戦国大名はどこも当初はその条件の下で事業を作っていきます。

その対策として、武田信玄はその小領主を自分の近くに住まわせます。

この場合、武田信玄には戦国大名として絶対的に有利な条件があります。

 

甲斐国の小領主のほとんどは武田の親族

後に武田の家臣団は二十四将として著名になります。

そのほとんどが武田の一族上がりなんですね。

秋山・穴山・甘利・板垣・一条・など実に8名もいます。

そんな親族一族からいうと、本家の武田家に英雄「信玄」が出現します。

そして国内を統一して国外に領土拡張に進みます。

信頼関係は他人ではありません。

裏切りが多発する戦国時代。

武田信玄の家臣は親族が多くいました。

親族が少なかった豊臣秀吉を考えるととても有利な条件だったでしょう。

 

 

甲斐国(山梨)から富士山が見える

日本のシンボル富士山。

富士山は甲府や甲斐国(山梨)の色んな場所から実は見えます。

東日本の人にとって、富士山が見えるかどうかは一つの話題ですね。

武田信玄よりも後の話。

織田信長は、武田勝頼を滅ぼした後、この富士山を見て感嘆したそうです。

そんな富士山が毎日見える甲府。

身近に誇れる物がある人は大成する可能性が高いそうですね。

甲府で毎朝名高い富士山を見ていた甲州軍団。

そしてリーダーが武田信玄。

成功する地域の条件を十分に持っていたんだと思います。

 

武田信玄の親武田信虎が甲府の基礎を作った

そんな武田信玄と甲斐国ですが、親の信虎もまた有能な人物でした。

彼は時代に先駆けて、家臣団の城下移住を強制しています。

本来、武士とは土地に所属します。

土地を守るために一所懸命に働きます。

そんな武士が自分の領地を離れてボスの城下に住む。

これはなかなか当時できることではありませんでした。

ここは武田信虎というリーダーでできたことなんでしょう。

武田信虎は本拠地を躑躅ヶ崎に移します。

そして満を持したように息子の信玄が生まれます。

武田信玄の頃、甲府はあまりにも人口が増えたため、信玄は城下の移住を制限するような政令を出しています。

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武田の本拠地躑躅ヶ崎館跡は武田神社

そんな武田氏の本拠地躑躅ヶ崎館は今は武田神社になっています。

武田神社の御祭神はやはり武田信玄ですね。

戦国大名で今でも地域でお祀りされている武将はいることはいます。

しかし、その大名が滅んだ後も神社として祀られるというのは別の意味を持ちますね。

山梨・甲斐国にとって武田信玄はシンボルなんですね。

戦国時代、地域をまとめて四方に威を発し、きり従えた英雄。

その英雄が祀られています。

武田信玄は死してなお、武田神社という形で躑躅ヶ崎館跡に鎮座しています。

そして、やはり山梨県中の人がこの神社を崇拝しています。

当日は結婚式の撮影も行われていました。

躑躅ヶ崎館跡周辺には武田信玄の高名な家臣達の屋敷がある

さて、躑躅ヶ崎館。

周囲には武田信玄旗下の高名な家臣たちの屋敷あとがあります。

武田神社周辺の案内図を見ると一目瞭然です。

歴史ファンであれば、感嘆するでしょう・・・。

馬場信春・山県昌景・内藤昌豊・高坂昌信・・・。

上杉謙信が川中島に侵入した!

と狼煙で合図があれば、高名な武将たちは武田信玄の号令の下、信濃路を北上したのでしょう。

甲府市内を散策すると、今でも武田24将と同じ苗字の人が多いことがわかります。

武田信玄という人は戦国時代の英雄です。

その英雄をして四方に威を発するために、培われてきた事象は500年の武田氏の土着性だったように思いました。

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武田神社の能舞台

武田神社には能舞台がありました。

武田信玄もこのように覇業の合間に芸能を楽しんでいたかもしれないですね。

能や狂言が定期的に武田神社では開催されているようです。

武田信玄の躑躅ヶ崎館跡の武田神社に参拝しました。

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