直江兼続の逸話には著名な話がいくつも残っています。
今回は直江兼続の逸話の中でも珍しい閻魔大王や伊達政宗との逸話を紹介します。
直江兼続の逸話・・・閻魔大王への紹介状を書いた
酷い話もあるものです。
ある人が誤って人を殺めてしまいました。
殺められた人の遺族が生き返らせてほしいと兼続に強引に訴えます。
兼続は示談金で解決しようとしました。
しかし、その遺族は納得しません。
遺族に対して直江兼続らしい名言というかすごい言葉を吐きます。
「私が閻魔大王に紹介状を書くから直接会いに行って談判してくるように」
と、遺族を全員、殺してしまいました。酷い話ですね・・・ 戦国武将らしい・・
直江兼続の逸話・・・伊達政宗とやりあった逸話
秀吉の時代、伊達政宗が諸大名の集まった場所にて珍しい金の大判を自慢していたそうです。
諸大名に閲覧させた後に陪臣である兼続の前にも大判が回ってきました。
(兼続は秀吉の直接の家来ではなく、景勝の家来なのでまた家来ということになります。)
兼続は手に取らずに、扇子の上で表と裏を見ました。
政宗は兼続が陪臣なので、直接手で触ることを遠慮していると思ったようで、
「手にとっても構わない」と言ったそうです。
兼続は「自分は上杉家の采配を任された者なので、金のような汚いものを手には取らない。」
と言ったそうです。
直江兼続の名言ですね。
直江兼続の逸話・・・伊達政宗との応酬その2
関ヶ原の戦いの後、江戸城内で伊達政宗とすれ違ったそうです。
兼続は会釈をせずに去ろうとしたため、政宗がそれを問い詰めると、
「あなたには何度も戦場でお会いしましたが、いつも後ろ姿しか見ていないので、気付きませんでした。」
これぞ直江兼続の格言というか名言でしょう。
直江兼続の逸話・・・江戸城殿中での話
兼続は天性の威厳の持ち主だったと言われています。
江戸城内では、徳川家の要人なども兼続には手を着いて挨拶をしていたそうです。
直江兼続の逸話・・・徳川家康を怒らせた直江状
関ケ原の戦いの原因は、家康が上杉家が戦備を整えていると難癖をつけたことから始まりました。
家康は詰問状を上杉家に送りますが、それに対する返答として兼続がまとめたのが直江状と言われる書状です。
ここには、家康への執拗な挑発とも取れる言葉が多く書かれていました。
家康は「自分はかつてこんなに無礼な書状は見たことがない」と言ったと言われています。
ちなみに、その後の上杉家は関ヶ原の戦いにおける一連の流れで家康に敵対しましたが、断絶されることもなく残っています。
その理由を作家の司馬遼太郎さんはこのように分析していました。
かつて、武田信玄と断交せざるを得なくなった家康は上杉謙信に助けを求めます。
その時、謙信は思いのほか喜んだそうで、踊るような返事の手紙を返してきたそうです。
家康はその時の謙信の印象があまりに活き活きとしていたそうで、この直江状を見たあとでも上杉家に悪い印象を持たなかったのではないかということでした。
司馬遼太郎さんの著書「関ケ原」には景勝と兼続が良く出てきます。
以上、兼続の有名な逸話でした。
思い出したらまだ書こうと思います。
直江兼続とその妻や子孫の紹介と大河常連の理由