地域活性局

藤丸正明

大河ドラマ 真田丸 直江兼続について

真田丸でも主役級の扱いになっていくのではないかと思われる直江兼続。

残念ながら今回の俳優さんはどなたかわかりません。

前回の大河ドラマの妻夫木聡の時もそうですが、怜悧なイケメンの印象のようですね。

私の印象では骨太でどすこいとも言いそうな印象を持っています。

 

2015-02-10 16.56.01

ちなみに、奈良の春日大社には兼続の寄進した燈籠が残っています。

スポンサードリンク

直江兼続といえば、鎧の兜に「愛」という言葉を掲げた武将として有名です。

愛という言葉の意味は、愛情というような意味ではないようです。
私はおそらく愛宕信仰から来ていると思います。
彼の尊敬する上杉謙信が毘沙門天の化身であるとし、旗には「毘」を使ったのと似ていますね。

直江兼続は永禄3年(1560年)生まれです。
数え年で歴史と摺合せをします。

1560年 誕生
1582年 本能寺の変 22歳。
1600年 関ヶ原の戦い 40歳。
1614年 大坂の陣 54歳。
1619年 逝去

彼は戦国の激動の中盤に生まれ、末期に活躍しています。

最も関心することは、彼は20歳そこらで上杉家のいわば首相のような座について死ぬまでその地位で活躍したことです。
普通の人間ができることではないですね。

彼の支え続けた上杉家は、謙信で最盛期を迎え、後継者景勝の末期に家勢が衰えます。

上杉謙信が家督を相続したころは正確な数字がわからないのですが、おそらく40万石前後だったのではないでしょうか。

そこから新潟・富山・石川の全域に加えて、群馬・埼玉・栃木・長野の一部も加えます。
最盛期には200万石近い領地を手に入れます。

その後、景勝の代になって、新潟のみの50万石前後まで落ちた後に、福島県西部の会津若松120万石に転封されます。

その後、米沢30万石で最後は落ち着きました。

スポンサードリンク

兼続は上杉家の収入が4分の1に落ちてしまった後に、様々な施策を打ち、貧困を脱出させたと言われています。
よく言われている代表例がうこぎで生垣を作ったことだと言われています。
うこぎは食用にもなるということでただの生垣ではなく食糧の生産も兼ねていたようですね。

また、これは今知ったばかりの話なのですが、米沢に行くと兼続がつくった石堤が残っているそうですね。
武田信玄も山梨に信玄堤を作り水の流れを緩和させたと言われています。

この時代、物の価値の中心は米でした。
生産地である田んぼなどが洪水に巻き込まれると損害が計り知れなかったそうです。
また、町の整備や鉱山の開発にも力を入れ、実質51万石にまで収入を上げたそうです。

スポンサードリンク

彼の人生は、戦争等による収入減に対して、政策で収入を上げるという方法だったと言えるでしょう。
彼が行った地域の施策は後に、上杉鷹山の藩政改革へのヒントとなっていきました。

兼続には多くの逸話が残っていますが、長くなったので、また後半で・・・

メールマガジン「奈良・ならまちニュースレター」発行しています

有料メールマガジン「地域活性化のヒント」発行しています

LEAVE A REPLY

*

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。