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直江兼続とその妻や子孫の紹介と大河の常連の理由

歴史 真田丸

大河ドラマでも常連になってきている直江兼続。

大河ドラマ「天地人」の妻夫木聡もそうですが、直江兼続は怜悧なイケメンの印象のようですね。

私の印象では骨太でどすこいとも言いそうな印象を持っています。

直江兼続とその妻や子孫の紹介と大河ドラマ常連の理由について紹介します。

 

 

2015-02-10 16.56.01

直江兼続の家紋や好んだ「愛」について

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直江兼続といえば、鎧の兜に「愛」という言葉を掲げた武将として有名です。

愛という言葉は、愛宕信仰から来ていると思われます。
彼の尊敬する上杉謙信が毘沙門天の化身と称し旗「毘」を使ったのと似ていますね。

これは直江兼続の家紋ではありません。

直江兼続の家紋については諸説あるようですね。

直江兼続の家紋に諸説があるのは出自などに関係があるでしょう。

直江兼続は樋口家に生まれ、直江家に養子に出たといわれています。

しかし、そのあたりも詳しくはわかっていません。

なので直江兼続の家紋はこれだ!という決定打はないようですね。

直江兼続の妻船

直江兼続の妻は直江景綱の娘船です。

直江景綱は上杉謙信を若き頃から支えた上杉の大番頭の1人です。

上杉謙信は兄の晴景と家督争いの後に当主となります。

それを支えたのが直江景綱でした。

そんな直江家は養子が入りますが、上手くいきません。

そこで、当時樋口兼続だった直江兼続と直江の娘船が結婚します。

 

直江兼続の子孫

直江兼続ほどの武将には子孫がいてほしいと思う人も多いでしょう。

しかし直江兼続には子孫が実はいません。

直江兼続はまずは養子だったこともあり、妻以外には側室を置きませんでした。

直江兼続と妻船の間には2名の子供がいましたがいずれも早く亡くなっています。

また、直江兼続に子孫がいない理由の一つにこんな逸話があります。

直江兼続は家中きっての身代でした。

その身代は上杉家を時に圧迫したのでしょう。

それで直江兼続は子孫を作ることなく断絶を決めたといわれています。

直江兼続は関ケ原の戦いでの失敗を自分の責任に収めようとしたのでしょう。

やはり直江兼続という人は並みの人間ではないですね。

直江兼続の年表

直江兼続の年表を数え年で歴史と摺合せをします。

1560年 誕生
1582年 本能寺の変 22歳。
1600年 関ヶ原の戦い 40歳。
1614年 大坂の陣 54歳。
1619年 逝去

直江兼続の年表と当時の情勢を比べると戦国中盤に生まれ末期に活躍しています。

最も関心することは20歳で上杉家のいわば「首相」になり、死ぬまでその地位で活躍したことです。
普通の人間ができることではないですね。

直江兼続が支え続けた上杉家は謙信で最盛期を迎え、後継者景勝の末期に家勢が衰えます。

上杉謙信が家督相続当時の上杉家の実力はおそらく40万石前後だったのではないでしょうか。

そこから新潟・富山・石川の全域に加えて、群馬・埼玉・栃木・長野の一部も加えます。
最盛期には250万石近い領地を手に入れます。

その後、景勝の代に新潟のみの50万石前後となり福島県西部の会津若松120万石に転封されます。

関ケ原の戦いの後、米沢30万石で最後は落ち着きました。

直江兼続の器量と実績

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直江兼続は上杉家の収入が4分1に落ちた後、様々な施策を打ち、貧困を脱出させたと言われています。
よく言われている代表例がうこぎで生垣を作ったことだと言われています。
うこぎは食用にもなるということでただの生垣ではなく食糧の生産も兼ねていたようですね。

また、米沢に行くと直江兼続がつくった石堤が残っているそうですね。
武田信玄も山梨に信玄堤を作り水の流れを緩和させたと言われています。

この時代、物の価値の中心は米でした。
生産地である田が洪水に巻き込まれると損害が計り知れなかったそうです。
また、町の整備や鉱山の開発にも力を入れ、実質51万石にまで収入を上げたそうです。

彼の人生は、戦争等による収入減に対して、政策で収入を上げるという方法だったと言えるでしょう。
彼が行った地域の施策は後に、上杉鷹山の藩政改革へのヒントとなっていきました。

兼続には多くの逸話が残っていますが、長くなったので、また後半で・・・

 

直江兼続が大河ドラマ常連の理由

直江兼続は大河ドラマでこの時代を取り上げる際の常連になりつつあります。

理由はいくつかありますが、しいて言えば直江状にあるでしょう。

直江状とは直江兼続が徳川家康に書いた書状です。

この書状が関ケ原の戦いに繋がるきっかけになります。

歴史の当事者なんですね。

このような部分は必ず大河ドラマでも放送されます。

このあたりが直江兼続が大河ドラマの常連になっている理由だと思います。

直江兼続の逸話・・閻魔大王や伊達政宗とやりあった逸話

 

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