福岡県太宰府市。
この町は日本の歴史の中で大変重要な地位を持っていました。
歴史のある太宰府。
太宰府の観光の課題について書いてみます。
大宰府の始まり・・太宰府ではなく大宰府だった
日本が初めて奈良に都を作った頃、太宰府はその出張所でした。
出張所は九州地域の統括の他、大陸との交流の窓口を担当します。
出張所の名前は大宰府。おうみこともちのつかさとも言ったそうです。
別名は遠の朝廷。
ちなみに太宰府と大宰府の違いを紹介します。
大宰府というのは九州を統括する行政府の名前です。
一方の太宰府は現在の太宰府市を指す名前です。
太宰府と大宰府がわからなくなる人が非常に多いそうですね。
地元の人もこの違いをどれだけ理解しているかはわかりませんが・・。
大宰府のその後
平安時代には菅原道真が赴任してきました。
後に日本中に天神信仰が起こります。天神信仰は太宰府が由緒です。
南北朝時代には南朝の征西府がおかれました。
室町時代には九州探題がおかれました。
桃山期には高橋紹運が島津家の大軍を引き付けて歴史に名を残しました。
幕末には五卿が太宰府に滞在し、高杉晋作や西郷隆盛大久保利通も滞在しています。
1945年8月16日。
玉音放送を聞いた前日から私の祖母は寝ることができなかったそうです。
次の日、朝早くに天満宮を訪れたそうです。
いつも変わらない社殿と神主の姿を祖母は確認しました。
日本は戦争には負けたけれど、すべてを失ったわけではないと思ったそうです。
九州という地域の中では圧倒的に歴史的遺産を持つ地域太宰府市。
戦後、日本の中央集権の掛け声のもとに統一基準の地域政策をすすめます。
そして豊かになった日本社会。
そんな社会の中で太宰府の持つ役割とは何か。
私は太宰府には18年間住んでいました。
生まれてから高校卒業までほぼ太宰府にいました。
この町は大都市福岡の経済圏にあります。
福岡市内には電車であれば30分ぐらいで通勤できます。
そして、観世音寺を始め歴史的遺産のお蔭で緑もそれなりにあります。
太宰府市は盆地になっています。北を四王寺山・東南を宝満山に囲まれています。
太宰府の観光客は年間800万といわれています。これは行政の発表数です。
実際はどうかわかりませんが、九州屈指の観光地なのは間違いありません。
ちなみに京都の観光客数は年間6000万人、奈良は1300万人らしいです。
太宰府は条件はとても良いと思います。
福岡県内の人は何気にふらっとくることができる町です。
その一方で、客単価が非常に低いように見えます。
やはり太宰府天満宮にお参りして梅が枝もちを購入して帰る。
そんな印象が強いのでしょうか。
太宰府観光の課題は客単価
ここに太宰府の課題を見出すとすれば、食とサービスそして宿泊です。
食に関しては天満宮界隈には若い料理人が増え始めています。
サービスとしては、もっとガイドなどを充実させることができればいいと思います。
そして、観光のエリアを天満宮界隈から市内全域に拡大できればいいと思います。
また、太宰府市内の人材の発掘が今後の観光事業に大きくかかわってくるでしょう。
町の力がすなわち、太宰府観光の力になります。
多くの人材を発掘して、それまでになかった観光の広がりをつくるべきでしょう。
太宰府という紛れもない観光地。
そこには一定の人が必ず押し寄せます。
特に太宰府はその点は九州屈指の観光地なので恵まれています。
その押し寄せる観光客の日常を豊かにするために太宰府の人が何をするべきか。
そしてどう対価を得ていくのか。
人口7万人の小さな町です。
本気で観光経済の活性化を進めれば全住民がそれで生きて行くことができるでしょう。
町も格段に豊かになるでしょう。
中央集権国家である今の日本では、地方の税金は中央に吸い取られます。
しかし、観光地だけは中央からお客さんを呼ぶことで売上を作ることができます。
まずは裾野を広げること。
そしていつかは宿泊ができる町をもう一度目指すこと。
そのためには何よりも観光について学び、知ること。
そして太宰府の町が一体となって観光経済を作り上げることだと思います。
多くの雇用が生まれ、日本社会に必要な太宰府となるでしょう。
私の永遠の地元である大宰府にエールを込めて書きました。
太宰府の観光の課題について考えてみました。