母方の祖父の話です。
祖父は現在94歳。
祖父の戦争の話を書きます。
太平洋戦争の記憶。学徒出陣と本土決戦の話。
祖父の育った地域では祖父の家は古豪の家でもありました。
明治までは在地豪族として地域の世話役の家でした。
明治以降は果物の生産を務める傍ら、久留米絣の組合長を歴任します。
また、私から数えて4代前の清太郎という人は銀行を設立しています。
そして村議会議員なども務めていた家でした。
そんな家の次男として生まれた祖父。
小さい頃は裏山のマツタケを取るのがうまかったそうで、
「マツタケ名人」と呼ばれていたそうです。6歳。
祖父の父は久留米で最初に自転車を買った人だったそうです、
そして、祖父はその自転車に乗って映画館に行きます。
帰りに自転車が盗まれていたそうです。
おそらく久留米市盗難1号は祖父なのではないでしょうか。
1943年。祖父にも召集がかかります。
学徒出陣でした。
祖父は当時、今でいう明治大学の学生だったそうです。
学徒出陣で祖父が向かったのは満州でした。
祖父は配属後、2か月ほどで盲腸になったそうです。
心配した両親は祖父を見舞いに満州まで訪ねてきたそうです。
戦時中にこんな光景はちょっと不思議ですね。
しかし、祖父の一番上の姉が南満州鉄道の経理部にいたそうで、
融通を利かせてもらったのでしょう。
祖父の家は久留米絣の生産をしていました。
そして、その多くは刑務所に下請けに出していました。
これは何やら明治時代の人脈に関連するらしいです。
詳しくはわかっていません。
※画像に映っているのはわたくしです。。。
さて、祖父は戦車第一師団に所属します。
そして、1945年3月、本土決戦に向けて、満州から本土に上陸します。
本土上陸は新潟港だったと言っていました。
仲間の船は敵の魚雷で沈没したそうです。
最終勤務地は栃木県佐野。
そこで祖父の戦争は終戦を迎えます。
たしか、作家の司馬遼太郎さんも同じ部隊だったようですね。
しかし、祖父からこの話を聞いたことはありません。
まあ、部隊も大きかったと思いますので、知らなかったのでしょう。
部隊解散の日。祖父はある行動に出ます。
今もご存命ですが、三笠宮崇仁親王殿下が部隊の長だったそうです。
部隊解散後、すぐに祖父は三笠宮崇仁親王殿下に揮毫をお願いします。
書いていただいた言葉は「和」という字です。
戦争終了後、平和を望まれたのでしょうか。
三笠宮は終戦に導くための様々な努力があったそうですね。
私の母方の祖父は、あまり修羅場に出遭わずに終戦を迎えています。
学徒出陣では帰ってこなかった人も多かったと聞いています。
それを考えると、祖父は運もとてもよかったのだろうと思います。
あのまま満州にいれば、そこで亡くなっていた可能性が高いです。
そして久留米の部隊は最強部隊と言われていたそうですね。
なので本土決戦用に温存された部隊だったようです。
祖父はその後、元気に今も生きています。
家には私はまだ見たことがないですが、外套があるそうです。
満州で厳寒期に着ていたそうです。
戦争に行ったという誇りがその外套に詰まっているようにも思います。
太平洋戦争の記憶。祖父の学徒出陣と本土決戦について書きました。