1942年4月18日。
米軍のドーリトル隊による空襲により、日本への空襲が始まりました。
空襲は主に科学理研や軍需工場のある地域が狙われました。
その空襲の恐れのある地域では、子供の疎開を推進していきました。
そんな疎開を受け入れた記録が残っている寺院が奈良にあります。
太平洋戦争の記録。 疎開を受け入れたお寺の記録を紹介します。
向渕正定寺
奈良県宇陀市室生。
室生寺で有名な室生地区に、浄土真宗の寺院正定寺というお寺があります。
こちらでは、戦時中、国の方針で疎開してきた子供たちがいました。
疎開の記憶
一般に疎開というと逃げてきているイメージですが、実際は全国に散らばって働くという考えだったそうです。
小学生でも働かなければならない時代。
その時代を過ごした人たちほど、戦争に対する嫌悪感が強いといわれています。
正定寺に疎開してきたのは、大阪市東成区の小学生たちでした。
一昨年の終戦70年にあたり、疎開元の小学校を知り訪ねたことがきっかけでわかりました。
そして、当時疎開していた児童と再会したそうです。
敗戦と共に焼け野原に帰っていった子供たち。
1945年8月15日。
日本は敗戦による戦争終結を迎えました。
子供たちは焼け野原の大阪に戻っていきました。
変わり果てた町の姿を子供たちはどのように感じたのでしょうか。
朝鮮・満州布教の記録
浄土真宗では朝鮮併合以降、宗派が一体となって、朝鮮・満州に布教に出かけます。
そして、次々に寺院を建立していったそうです。
正定寺では、その布教の記録を記した記録集があります。
記録集の中には、朝鮮・満州の地名が散見できます。
日本が本土並みの併合を進めたことは、今なお、隣国との外交問題に取り上げられています。
お寺に安置されている砲弾
正定寺には、不発弾なのか、砲弾が一つ安置されています。
日本人は日清戦争以降、戦勝記念のような形で、故郷に戦利品を持ち帰ることが多かったようです。
この砲弾はその名残でしょうか。
最近は、不発弾処理でニュースになることが非常に多いですね。
恐る恐る触りました・・。
鉄の供出と返礼品の花瓶
日本は、太平洋戦争の前にアメリカに鉄と石油の輸入を止められました。
そして米英中蘭から制裁を受けます。
その対策の一環として、国民から鉄の供出を考えました。
また、鉄の供出の中、返礼品としてもらった花瓶が置いてありました。
寺院は本願寺など本山からの意向で集めていたようです。
花瓶には産地なのか、文字が刻まれていました。
未だに、これがどこの物なのかわからないそうです。
境内の戦没者供養
正定寺は地域の氏寺のような寺院です。
その地域の半数の人は檀家です。
寺院の中には、戦没者を別に祀っている場所があります。
小さな集落でもこれだけの戦死者を出しています。
集落から旗を振って見送った人の中には、木箱に納められて帰ってきた人もいました。
寺院の境内は決して広くはありません。
しかし、このように別にして供養する必要があったのでしょう。
大日本帝国という大きな看板の元に戦ってきた日本。
しかし、小さな集落が負担した犠牲はあまりにも大きかったのでしょう。
感想
疎開の話はよく聞いていましたが、実体験があった場所とは今まで御縁がありませんでした。
この親に会いたかった子供、空腹に耐えかねた子供がいたでしょう。
脱走して地元に帰ろうとする子供もいたそうですね。
向渕という集落は人口が200人もいたかどうか。
そんな小さな集落には耐えることができない戦争だったのではないでしょうか。
1937年から1945年の間に、日本が経験したことをこれからも探していきたいと思います。
太平洋戦争の記録。疎開を受け入れたお寺の記録でした。