7月4日は湊川の戦いが勃発した日です。
この戦いは足利尊氏と後醍醐天皇の争いの一つです。
湊川の戦いに勝利した足利尊氏は室町幕府の確立へと進みます。
また、この戦いではあまり人の関心を呼びませんが、3人の偉人の物語がありました。
後醍醐天皇の皇子護良親王と播磨の武将赤松円心・河内の武将楠木正成です。
時代の転換期を生きた立場の違う3人の逸話を紹介します。
後醍醐天皇第三皇子大塔宮護良親王
後醍醐天皇には多くの皇子がいました。
そのうちの1人が護良親王です。
早くから比叡山に入り得度し、全山の希代を背負う逸材だったと言われています。
一方で、武芸に励み、衆人を驚かす敏捷で剛健な皇子でした。
背の高い筋肉質の溌剌としたイケメンだったのではないかと思います。
やがて、後醍醐天皇が倒幕を決意した際には、その比叡山の力を存分に生かします。
後醍醐天皇が京を脱出して笠置に向かったのも護良親王の機略でした。
笠置に到着した後醍醐天皇と護良親王は全国に激を飛ばします。
その激に応じた人物が近畿に2名いました。
河内の豪族楠木正成
河内国の楠木氏は、何代か前に駿河国から赴任してきたといわれています。
河内玉串荘を拠点に、南河内に勢力を伸ばしたと言われています。
楠木正成は正規の仕事の他に運送などの仕事を行っていたと伝わっています。
楠木正成は後醍醐天皇の激に応じて、河内赤坂城にて挙兵しました。
一方で、笠置山は幕府軍に陥落させられ、後醍醐天皇は大和高原を彷徨った後に捕縛されます。
護良親王は間一髪で吉野に逃げ、熊野へと雲隠れしながら激を飛ばし続けました。
播磨の武将赤松円心則村
赤松円心は播磨国の主要豪族であり、姫路界隈を軸に勢力を張っていました。
赤松円心は護良親王から激を受けて立ち上がります。
周辺地域を制圧し果敢に京へ進軍します。
畿内の戦い
楠木正成は一旦、赤坂城を捨て、雲隠れしますが、また千早城にて旗揚げを行います。
幕府は総力を挙げて攻撃を行いますが、一向に落ちる気配がありませんでした。
楠木正成という人は不思議な人で、城に籠りながらも積極的に相手に仕掛けていきます。
挑発して城に引き付けて叩きます。
そんな時に、護良親王が吉野で挙兵します。
幕府も軍隊を編成し、吉野に大軍を派遣します。
護良親王はこの戦いで吉野を放棄して高野山に撤退します。
しかし、そこにも軍勢が集結して幕府軍は対応にてこずります。
その間隙をついて京へ進軍したのが赤松円心でした。
尼崎や山崎の地で果敢に幕府軍と戦い、一進一退の攻防を続けます。
河内と大和に手を取られていた幕府軍は戦略が定まりません。
その幕府の混乱ぶりを見て一度は赤松円心と交戦した足利尊氏が翻意します。
足利尊氏は、当時、鎌倉幕府執権北条氏についで領地を持つ大大名でした。
その領国の一つ、丹波に進み、篠村八幡にて倒幕の兵を挙げました。
当時のナンバー2の参戦にて畿内では勝負がつきました。
その後、鎌倉幕府は上野国の新田義貞に滅ぼされます。
護良親王・楠木正成・赤松円心の活躍で鎌倉幕府は崩壊しました。
建武の新政と失脚する3人
隠岐の島に流された後醍醐天皇は、伯耆国の豪族名和長年の後援で旗揚げします。
そして在地豪族の佐々木氏を破り京へと進みます。
そして、建武の新政が始まります。
ここに武力と武力の政治抗争が勃発します。
元々、武家の棟梁である源氏のボスだった足利尊氏当時26歳。
後醍醐天皇の皇子で畿内で激戦を制した護良親王23歳。
この二人が争います。
しかし、足利尊氏の方が鎌倉幕府内で苦汁を嘗めていたこともあり政略は一枚上手でした。
後醍醐天皇の寵愛を受けていた阿野廉子をコントロールして護良親王を陥れます。
後醍醐天皇は足利尊氏に護良親王の捕縛を命じます。
そして護良親王は鎌倉に幽閉されることになりました。
それは同時に、護良親王派だった赤松円心と楠木正成の失脚へと繋がりました。
3人のその後
やがて、後醍醐天皇と足利尊氏が抗争します。
鎌倉政権下でナンバー2の大領主だった足利尊氏。
建武の新政が暗礁に乗り上げたのを見て挙兵します。
足利尊氏の弟直義はこの機に鎌倉に幽閉していた護良親王を殺害します。
護良親王25歳でした。
楠木正成は後醍醐天皇に最期まで忠義を尽くします。
その忠義は負ける・死ぬとわかっていても最後まで従う絶対服従でした。
後醍醐天皇方は一度は勝利し足利尊氏は九州へ追いやりました。
しかし、九州で勢いをつけ、足利尊氏は再び上洛作戦を展開します。
赤松円心。
赤松円心は後醍醐天皇に見切りをつけて、足利方につきます。
しかし、その足利方が上記の通り、戦いに敗れ西を目指します。
通のは播磨国。円心の地元です。
赤松円心は尊氏に告げます。
自分が播磨で死力を尽くして後醍醐天皇方を防ぐと。
その間に九州で勢力を挽回してくれと。
赤松円心は、有言実行します。
足利を追撃してきた新田義貞の軍勢を引き付けて奮戦します。
そして、新田が疲弊した頃、足利尊氏が上洛作戦を開始します。
後醍醐天皇は摂津兵庫の地にて後醍醐方の勢力の結集を命じます。
楠木正成は京にいましたが、息子を河内に帰らせたうえで、兵庫に向かいます。
ここに後醍醐方と足利尊氏の決戦が行われました。
今日はその日7月4日です。
楠木正成は戦死します。
その息子も孫もまた後醍醐天皇とその皇子に従い戦い続けました。
楠木正成は江戸中期以降、尊王思想と共に著名になります。
奈良にはその子孫を称する人が少なからず存在します。
2017年に福井県勝山市の平泉寺白山神社を訪ねました。
その際に、楠木正成の墓があることに気付きました。
一方の赤松円心はその功績で足利政権の中枢を担う赤松家の祖となります。
そんな赤松円心は、護良親王の事を思い出したかどうか。
ちなみに、赤松円心には円空という弟がおり、妻は楠木正成の姉でした。
歴史の転換点に華々しく活躍した3人の偉人。
湊川の戦の日に思うままつらつらと書かせていただきました。